所在地 称名寺 兵庫県加古川市加古川本町313
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狭い道を走り駐車場へ、ここ称名寺は、真言宗の寺院で、本尊は阿弥陀如来です。寺の付近一帯は加古川城跡だったようです。天正5年(1577)太閤秀吉が糟屋の館へ立ち寄った折、当時の城主加須屋助右衛門は秀吉について小姓頭となり、賎ヶ岳七本槍(しちほんやり)で武名をあげました。
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2014年のNHK大河ドラマが「軍師 官兵衛」に決定しましたが、天正5年(1577)加古川城で加古川評定(信長軍と毛利軍が戦うきっかけとなった会議)が行われました。また、糟谷(内善正)武則(12代加古川城主)は、黒田官兵衛の推挙により豊臣秀吉に仕え、三木合戦においては箕谷ノ上付城(三谷ノ上付城)に布陣して活躍したとされています。
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山門の左側には、称名寺の石棺が、“理觀大徳遺跡”と彫られた石碑の台座に用いられているのが、称名寺の石棺です。ちなみに理觀大徳遺跡とは、近世から近代にかけて真言宗の中で“十一大徳”と呼ばれる僧侶のうち理觀に縁のあることから立てられたものです。
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山門をくぐり境内の左奥には、七騎顕彰碑と呼ばれる供養塔があります。これは南北朝時代、出雲守塩冶高貞が加古川で追手に襲われた際、主君を守ろうとして奮死した従臣七名を供養するため建てられたものです。後に塩冶高貞は、人形浄瑠璃等の代表的な演目「仮名手本忠臣蔵」に登場する塩冶判官のモデルとして取り上げられ、忠義話として紹介されました。
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その境内の左、奥には屋根には相輪。2層の屋根は二軒(ふたのき)本繁垂木(ほんしげだるき)の扇垂木(おおぎだるき)になっていて、言うなれば塔の意匠が、1層は疎垂木(まばらだるき)。密度の違いが極端なようで、繁垂木というのは、垂木(屋根の裏側にみえる櫛の歯状の部材)が垂木の断面の横幅と同程度の間隔で高密度に並べる意匠。疎垂木というのは、逆に垂木の密度がまばらな意匠で、軒に白く塗られた木口が並んでみえるので、密度の違いがはっきりとわかります。
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平家追討の功により、糟谷有数が源頼朝よりこの地を与えられ、寿永3年(1184)に築城されたという。その後鎌倉時代まで糟谷氏が播磨守護代として在城した。
糟谷氏累代の中でも、12代糟谷武頼は戦国期、羽柴秀吉に従い、賤ヶ岳の戦いで軍功があり、いわゆる七本槍の一人に数えられた。そのご一万二千石の大名まで出世するが、関ヶ原の合戦では豊臣方についたため、領地没収され、当城も廃城となった。
山門を入るといちょうの大木があり、今は刈り込まれていますが、このいちょうの木は昔から加古川の町の目印だったようです。
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次回をお楽しみに では またね
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