Sketch of the Day

This is Takeshi Kinoshita's weblog.

Heal The World

2009-07-09 | Media
 

ジャクソン氏が死んだのでブラックミュージックでも聴いて故人を、そしてあの頃を偲んでみようと思った。といっても僕はジャクソン氏のレコードを一枚も持っていないし、彼の全盛期の作品群も特に好んで聴いていたわけでもないから、彼を偲ぶといっても彼の音楽によってではない。しかし、彼ほどのミュージシャンであってみれば、そんじょそこらのレコードを引っ張り出してくるわけにはいかない。そこで取り出したるは、まずはダニー・ハサウェイ。渋い、渋すぎる、そしてかっこいい。それでいてじつにリラクシン。「かっこいい」ってのはいかにも陳腐な、そしてミもフタもない表現だが、これ以上に音楽の良さを伝えるのに相応しい言葉を僕は知らない。いい曲、美しい曲は数多あれど、かっこいい曲となるとぐっと絞られてくる。ロックだろうが、ジャズだろうが、R&B、クラシックだろうがなんでもそうだ。かっこよさは音楽のキモである。脱線。ダニーは投身自殺で帰らぬ人となった。。。おつぎは問答無用のマイルス・デイヴィス。マイルスは天才ぶりを発揮しながら長生きした。黒人ファンの反対にもかかわらず、白人のビル・エヴァンス(ピアノ)を起用したりしたところに彼の懐の深さを感じる(カインド・オブ・ブルーはそうやってつくられた)。マイルスは1991年に他界したが、この年、ジャクソン氏が「Heal the World」(YouTube)というバラードを発表した。これがすばらしい作品である。この手の曲を-よく言われるように-偽善的だとか、ナイーブに過ぎるとか、楽観的だとか、僕は決して思わない。素直に音楽的に感動すればよいのである。発表当時、僕はプライベートでのある出来事と相まって、J-WAVEでこの曲がヘヴィーローテーションされていたのをつい昨日のことのように思い出す。また脱線。

ところで、ブルーズ、そしてモダンジャズは黒人の独壇場だった。R&Bも。だけど、ロックあたりまでくるとかなり黒人のプレゼンスは怪しいものとなる。もうひとつ、極めて不可思議なことは、クラシック音楽界における黒人のポジションが皆無といってよいほどに希薄な点だ。クラシック音楽を勉強したりたしなむ黒人の方はたくさんおられるだろうが、黒人指揮者や黒人オケによるクラシックのレコード・演奏となると、ほとんどマーケットとして成立していない(黒人のジャズマンがクラシックピアノを演奏する程度)。なぜだ。むろんクラシック音楽は西洋文化の所産だといってしまえばそれまでだけれど、日本人を含む東洋人(それ以外の民族)の指揮者、演奏家によるレコードは少なからずあるし、それなりの評価を受けているものだってあるじゃないか。ひょっとして、黒人のリズム感や音楽性というものが、クラシック音楽とは何か根本的に相容れないのか。そういうことなら理解できる。でも、おそらくはそんなことじゃないだろう。日本人だってやってるんだから。黒人だったらもっと巧くやれるはずだ。僕は熱狂的な人権擁護論者でもなければ人種差別反対論者でもない。ただたんに優れた黒人音楽家によるクラシック演奏を聴いてみたいという、純粋に音楽的な興味から言っているだけのことだ。このへんに、クラシック音楽(業界)が抱えている「闇」というと大げさだが、純粋に音楽性や芸術的感性、技術では括れない、西洋(人)とそれ以外の地域(民族)を分け隔てている見えないバリヤーというか既得権益というか、そんなものを感じる。

ベートーヴェンじゃないバックハウス

2009-06-16 | Media
 

今回は巨匠にご登場いただこう。。。バックハウス。
バックハウスといえば、なにはともあれベートーヴェン。そして、ブラームス。
ところがどっこい、ハイドン、モーツァルトもすばらしい。

ハイドン・リサイタルは、冒頭のピアノソナタ52番出だしの音色のなんとふくよかなこと。こういう音、最近の演奏やCDじゃ聴けないなぁ。それから、この人のモーツァルト、まるでベートーヴェンみたい(笑) 風格ありすぎ! いわゆる十八番の作曲家、楽曲以外の演奏にこそ、その演奏家の特徴が色濃く顕れるということはよくある。

最後の3つのソナタ

2009-05-29 | Media


内田さんのベートーヴェン。美しすぎるベートーヴェン。だけど、こういうのもあり。というか、いい。ベトのラスト3ソナタは、(不謹慎にも)仕事をしながら聴いていても、ほとんど無理矢理、楽曲の世界に連れていかれちゃうこと請け合いである。目前の仕事がいかにもつまらなくちっぽけなものにみえ、よし締切なんて無視してやれ、という寛大な!?気持ちにさせてくれる。すばらしい(←どこがだよ)。いや、仕事やる気がなくなるわけじゃなくてむしろその逆。

それはベートーヴェンの音楽が、いかに深い悲しみにくれようとも、どこかに一点の ―時に勝ち誇ったように― 救いのようなものが兆すからだと思う。その点、ブラームスやシューベルトは、たしかに美しいけれども、いよいよもって悲壮感が助長されるだけ。それはそれでいいんだけれど、なんともやりきれなく、ついでに仕事もやる気がしなくなる。これは困る。べつに仕事の手段にしてるわけではないけれど、やる気の起きる音楽/起きない音楽、というのは間違いなくあるな。

ヤンキー vs ロマン!? ロマンの解釈を巡って

2009-05-01 | Media
 

YoshikiそしてX-Japanはロマンチストのオレにとって非常に微妙なポジションにある。楽曲は昔から好きではあったが、どうもヤンキー的な匂いがするところがバツと言えばバツ―いやマーケティング的には功を奏しているのだろうけれど―。昔、たまたま立ち寄った淡路島のうらぶれたショッピングモールの片隅で、当時ドロップアウト中だったトシ(vo)がラフな格好で打ちひしがれたように歌ったTears(だったように記憶している)は感動的だった。個人的にはそれで十分なのだ。過剰なvisualは要らない。

ヤンキー? 俺は嫌いだよ、はっきり言って。文化論の対象としては面白いと思うけど、ヤンキーそのものには全くこれっぽっちのシンパシーも感じない。その点、Violet UKはヤンキー臭、ヤンキー色が―X-Japanと比べればだけれど―希薄な点がマル(と言えばマル)。音楽に求めるロマンの解釈を巡ってX-JapanとViolet-UKは対照的、と言えまいか。だから、後者に前者のような音楽性、楽曲を求めるのは間違っている。X-Japan的ロマン―ヤンキー的ロマン―は、個人的にはあってもなくてもどうでもよい類のそれ。もちろんX-Japanの音楽自体を否定しているわけではない。

ユリア・フィッシャーのバッハ

2009-03-18 | Media


「ジャケ買い」である。でもいい買い物をしたと思う。デッカの録音もイイんだろうけど、それを差し引いても、なんとも聴きやすいバッハに仕上がっているのは彼女の力量によるところ大とみた。決してハデではないし、リリカルな演奏というわけでもないのに、しょっぱなから演奏に引き込まれてしまった。とにかくヴァイオリンの音色が美しく多彩。まあ、ライブでは絶対こんなふうには聴こえないだろうけど、でもそれがCD(録音)のよいところでもある。SACDで欲しかったところだ。全編にわたって聴き所満載なんだけれど、個人的にはM1~3の「2つのヴァイオリン協奏曲」とM10~12の「オーボエとヴァイオリンのための協奏曲」をとりたい。特に後者の、オーボエとの絡みは絶品で、慎ましくオーボエに寄り添いつつ、しっかりと存在感をアピールできちゃうあたり、ただ者ではない。

カラヤンが象徴するもの

2009-03-09 | Media


宮下誠『カラヤンがクラシックを殺した』光文社新書、2008

著者の言っていることに98%くらい賛同する。だけど、なんだか新しい本を読んだ気がしない。それに、こういう言説はそもそもかっこわるい、と思う。かっこわるすぎる。だから、賛同はするけど、オレならこういうことは公言しない。頑固オヤジに説教されてるみたいな感じなんである。言ってることはそりゃごもっともなんだけど、でもそんなこと言ったって現実的には、、、という類のそれだ。

思うに、かっこわるさの源は、「カラヤンが象徴するもの」=ものの考え方や価値観・世界観(つまるところ戦後資本主義に行き着くだろう)を批判することが本書の目的と述べつつ、そんなことはタテマエであって、ホンネはカラヤンの音楽がキライでキライで、とにかくカラヤンを批判したいがために、「カラヤンが象徴するもの」が事後的に召還されたんじゃないか、と思えてしまうところにある。逆に言えば、カラヤンを批判するには、カラヤンが象徴するもの=戦後資本主義を大げさにも持ち出さざるをえなかった、ということである。

仮に、カラヤンが象徴するもの自体を批判するのが目的だったとしよう。だけど、もしそうなら、著者自身が述べているように、精神史的分析があまりにも不十分だ。なぜカラヤンがあのような音楽、あのような演奏にこだわり続けたのか、彼にそれを強いた背景・精神を徹底的に、そして客観的に分析してほしかった。そうすればじつにかっこよかったのに。またそれをやらないと、資本主義の病理、時代の病理なんてそれこそびくともしないだろう。

ギレリスのベートーヴェン

2009-03-02 | Media
 

ここしばらくシューベルトのピアノソナタを聴き込んでいた。しかしそればっかりだとさすがに飽きてくる。で、ベートーヴェンがまた聴きたくなる。もちろんベートーヴェンだけだとそれはそれでまた飽きてくるのだが、ボクの場合、いろいろな作曲家の作品に赴いても、戻ってくるのは必ずベートーヴェン。いわばベートーヴェンをベースキャンプにして、方々の嶺々にアタックをかけるのだ。「縦走的」に渉猟するというような聴き方をボクはあまり好まない。

そんな大事なベースキャンプの専属シェフをどなたにお願いしているかといえば、ほかならぬエミール・ギレリスである(ピアノソロの場合。ピアノコンチェルトだとフリードリッヒ・グルダだな)。ちなみに、そのまえはぜんぜんタイプが違うけれど、ヴィルヘルム・ケンプですた(←いまでもけっこう好きだったりする)。反対に、頼まれてもお断りなのがポリーニ! いやそんなことはどうでもよい。問題はギレリスである。

ギレリスのベートーヴェンといえば、ニ短調(テンペスト)と変ロ長調(ハンマークラヴィーア)のソナタが個人的ベスト。前者のアレグレットを聴いてみよ。イデアなんぞを超越した音楽の構築美がそこにはある。後者のアダージョに耳をすませてみよ。時間と空間を無化する音楽の圧倒的な強度がそこにはある。

ピアノ瞑想

2009-02-18 | Media
ここ1ヶ月ほどピアノを集中的に聴いている。



アルゲリッチとラビノヴィチによるラフマニノフは、組曲第1番と交響的舞曲が個人的ベスト。アルゲリッチの手のつけられない奔放さのようなものが幻想的で抒情的なラフマニノフの旋律に乗せて音化されていくさまは美しさの限りだ。

 

シューベルトのピアノソナタも絶品。シューベルトは小曲の人だという評論家氏の意見があるようだが、僕のみたところ長大なピアノソナタもシューベルトそのものでありじつに魅力的である。これについては村上春樹氏が著書『意味がなければスイングはない』のなかでうまいことをいっておられる。少々長いが引こう。

「・・・このニ長調のソナタはたしかに、一般的な意味合いでの名曲ではない。構築は甘いし、全体の意味が見えにくいし、とりとめなく長すぎる。しかしそこには、そのような瑕疵を補ってあまりある、奥深い精神の素直なほとばしりがある。そのほとばしりが、作者にもうまく統御できないまま、パイプの漏水のようにあちこちで勝手に噴出し、ソナタというシステムの統合性を崩してしまっているわけだ。しかし逆説的に言えば、ニ長調のソナタはまさにそのような身も世もない崩れ方によって、世界の「裏を叩きまくる」ような、独自の普遍性を獲得しているような気がする。結局のところ、この作品には、僕がシューベルトのピアノ・ソナタに惹きつけられる理由が、もっとも純粋なかたちで凝縮されているーあるいはより正確に表現するなら拡散しているということになるのだろうかーような気がするのだ。」

すばらしい。こんな文章、書いてみたいものである、さすが文学者だ。音楽学者や音楽評論家の文章なんて、いくら読んでも「その音楽を聴いてみたい」という気にさせられることはまれだが、村上氏のこんな文章を読まされるともう聴かずにはいられない。すばらしい。アファナシエフのシューベルト(下記)は、村上氏お勧めの音盤ではないのだが、他のピアニストに輪をかけて長い演奏が、個人的には気に入っている。抑制のきいた歌わせ方もまたよろしい(凡百のピアニストであればおおいに歌わせまくるところ)。内田さんのシューベルトも悪くないと思うが、まだ十分に聴きこめていない。



グールドのバッハについては改めて述べるまでもないけれど、この音盤ではパルティータ第2番とフランス組曲第2番が個人的ベスト。バッハは夜1人で静かに聴くに限る。BGMやカーステレオ等で聴いては絶対にいけない(と思う)。一音も聞き漏らさずに、砂漠で水を飲むかのように聴かなくてはダメだ。深い瞑想の世界に入っていく。グールドの鼻歌とともに。。。

Twentieth Century Boy

2009-02-07 | Media


1号(7歳)と「20世紀少年-第1章-」を見た。ボクは素直に楽しめたが、ツマは盛り上がりに欠ける駄作だとあっさり片づけた。そういわれると確かにそう思う。でも日本映画って基本的にそんなもんじゃなかったかとも思う。それは置いておくとしても、この映画、よくよく考えると、ストーリー(←オ○ム真理教が引き起こした一連の事件なくしてあり得ない)よりも「ノスタルジー」に面白さの源泉があるような気がする。「あの頃」、「あの時代」を彷彿とさせるイメージやエピソードが全編に散りばめられていて、アラフォー世代には妙にノスタルジーをくすぐられるところがある。しかし、それらを取り除いた時、どれほどの映画のうま味が残るかは確かに微妙ではある、と思う。

しかし、驚いたのは、7歳になる1号が面白いといって、DVDまで買っちゃったこと。聞けば、この映画、我々の世代だけでなく、今のガキどもにもそれなりに人気があるそうな。そこで、この映画のどのへんが面白いのか1号に聞いてみた。果たして、「(草むらの)秘密基地」や「(地中に埋めた)タイムボックス」や「よげんの書」などがイイんだという(←ストーリーは完全に理解できていないはず)。おお、それはこっちも同じだぜ。ということはつまり、これらの「小道具」たちは、世代を超えて「面白い」ものである可能性が高い。こうして、ノスタルジーは現代に接続される。「子育て」の面白さは、ノスタルジーを生産的に語れる醍醐味にあるのかもしれんぞ(←コドモをダシにしてオトナが遊びたいだけ!?)。

もう1つ忘れちゃならない小道具がこの映画にはある。そう、音楽。ロック。T.REX。ファンじゃなかったけど、久しぶりに聴いてみたら(←もちろんリアルタイムで聴いてきたわけじゃないが)、なんだかかっちょいいじゃねぇーか。ここで、「これがホンモノのロックだぜ!」とかは、頑固オヤジみてぇでチョーかっちょわりぃーので、口が裂けても言わない。ちなみに、映画では、ミッチー扮するヴィジュアル系ロッカーのステージに、主人公のケンヂが「これがロックか?」と吐き捨てるシーンがある(←これがまた70年代ロック好きオヤジのノスタルジーをくすぐる)。さて、それはそうと、なんとも嬉しいことに、我が1号はこの音楽を気に入ったようだ。わかるのか、おめぇに。。。せがまれて(←コドモをダシにして)、さっそくiTunesで購入。それにしても、イギリスの音だなぁ。

追伸、常盤貴子はいい女優になったなぁ。ドスのきいた信念の強い女性を演じて、この人の右に出るものはいまやいない。

no room for squares II

2009-02-01 | Media

ブルーノート4100番台のサンプラー

当時(たぶん10数年以上前→我が家に2枚あるCDは必ず10年以上前のもの)、このCDが店頭に並んだ時、真っ先に購入し、その後もVol. 3~5と発売が待ち遠しかったことが思い出される。この音盤のおかげでダンサブルなジャズの良さを知ることができた。今でもたまに引っ張り出して聴いている。あの頃と変わらず、デム・タンバリンズ、チーズケイク、ロイエと続く初っ端3曲でもうノリノリ。

ただ、最近、どうも古いブルーノートの「音」が耳にあわなくなってきた。なんて書くとおしかりを受けそうだが、しょうがない。おそらくは好みの問題。たしかにいい音、いい録音だとは思う。でも、なんだかメカニカルで、エッジが効き過ぎている。昔はそうは感じなかったんだけれど。もちろん、最近のノラ・ジョーンズなどで聴くブルーノートではそんなことはないのだが。

カラヤンのライブ

2009-01-23 | Media

カラヤン、死の1年前のロンドン公演
ブラ1もよかったが、個人的には「浄められた夜」をとりたい


生前、ほとんど日の目を見ることがなかったライブ音源(初販を含む)が、ここへ来てかなり発表されるようになり、それなりの評価を得ているようだが、このCDは珍しく宇野功芳氏が絶賛していた(レコード芸術1月号)ので買ってみた。素直に感動させてもらった。お蔵入りになっているカラヤンのライブ音源を発掘、評価していく作業は、素顔のカラヤンというか、裸のカラヤンをみるようで(←べつにみたくないけど)、とても楽しそうなんだけれど、僕は1人のリスナーとして、カラヤンについてはやはりセッション録音にこだわっていきたいと思っている。

これは、好き嫌いの問題ではなく、純粋な興味の問題だ。ライブでこんな演奏ができる人が、なぜ、あれほどまでセッション録音(別録り、ツギハギなんでもあり)に入れあげたのか。その徹底ぶりのほうにむしろ興味が湧くし、問題の立て方としても面白いと思う。ライブ音源が出てきた今こそ、両者の比較を通じて、カラヤンがセッション録音に込めようとした美学について、もっとリアルに語れるような気がするのだ。

年末年始の音

2009-01-04 | Media
日~水と自宅で休む。院生の学会論文のチェックをした以外は、1号&2号の世話と大掃除など。

大晦日は「のだめ ヨーロッパ編」を1号と見、紅白は「ポニョ」と「エンヤ」のところだけ見、それ以外は裏番の「ガキの使い:第二部:笑えない新聞社編」を1号と見(←笑った)、さらに恒例の「N響第9演奏会」(←ダメだった。独唱陣)を見、最後はやはり「クラシック・ハイライト」(NHK教育)と「ゆく年くる年」(NHK第一)の同時鑑賞で〆めさせていただいた。

依然として「ゆく年くる年」を凌ぐ番組はない。近年、「紅白」との落差が広がっているところがまたイイ(←むろん「紅白」のほうが変質している)。

クラシック・ハイライトも楽しめた。

特によかったのは以下。
ジュリアン・ラクリン(ヴァイオリン)とイタマール・ゴラン(ピアノ)によるサン・サーンス「序奏とロンド・カプリチオーソ」(←超絶)と、

ムーティ&ウィーンフィルによるチャイコの5番(←ご立派)、

それから、ヤルヴィ&フランクフルト放送響によるブル7。ただし、演奏よりヤルヴィの指揮姿(←なんたる繊細な)。

まあまあだったのは、
ワルテル・フラッカーロ(テノール)の「トゥーランドット」と、

ダニエレ・デ・ニース(ソプラノ)のスザンナ(「フィガロ」)など。

いまいちだったのは、
シフ(ピアノ)の「ワルトシュタイン」、

プディボン(←カワイイ)はへんなギミックなしで堂々と歌ったほうがイイと思うのはボクだけか。

ボストリッジ(テナー)のブルースもいまいち(←ブルースをナめないほうがイイと思うな)。

元日は、ウィーンフィルのニューイヤー・コンサート。

今年は、バレンボイム指揮とあって、演目がとてもユニークだった。

彼の派手な指揮はキライだが、ちょいとばかし貴族的でスノッブな「ニューイヤー」にエキゾティックな選曲はなかなかによかった。

中東に和平を!と、政治的なメッセージも忘れなかったし。

正月3日、BSデジタルにて、昨年9月松本で開催されたサイトウキネンフェスでの小澤指揮のマラ1「巨人」を見る。ショルティを彷彿とさせる熱い演奏で興奮させてもらった。

年末年始のクラシック番組はこれでほぼクリアしたが、唯一の心残りはベルリンフィルのジルヴェスター・コンサートを見逃したこと。ラトルがアメリカ音楽をどうさばくか、興味深かったのだが。残念。

トーマス・タリスの主題による幻想曲

2008-12-30 | Media
一瞬でイギリスのカントリーサイドにトリップできる音楽。

民族主義の音楽を聴いてご当地のイメージにピッタリだと感じるのは当たり前といえば当たり前のことなのかもしれないが、しかしどうしてそう感じられるのか。民族主義の音楽がその地域固有の音楽形式、あるいは民謡などを取り入れているからか。

いや、ではそもそもある地域の民謡や音楽形式が、よそ者の我々をしてなぜその地域の雰囲気や景観にピッタリだと、それらしいと感じさせるのか。


物語はクズだが、演奏はイイ、

2008-12-18 | Media
クライバーの音楽性は認めるが、
本質的にはスキになれない。

スキになれない理由、それは指揮姿!
踊るような、そして、汗かきすぎなんだよ。


C.クライバー/バイエルン国立歌劇場:楽劇「ばらの騎士」
1973 ミュンヘン ライブ



追伸、

どんなに名盤といわれていても、
レコードジャケット(デザイン)がクズなら、
やはり買わない。買う気が失せる。

というか、オレの基準では、
そういうのは名盤とはいわない。

オルフェオのジャケはまあまあ。