朝露によごれて涼し瓜の泥 芭 蕉
初案は、
朝露や撫でて涼しき瓜の土
であった。しかし、それでは、触覚によって瓜についた土の涼しさを感じとったことになり、やや大げさな身振りが気になる。
中七が下五に続く修飾語のかたちをとっているので、上五に切字「や」を用いたのである。
だが、「朝露」と「瓜の土」とが、二物配合に近い印象を与えることになり、感覚の新鮮さが必ずしも出てはいないようにおもう。
再案が、視覚的把握によって句を統一し、中七に休止を置いた構成にしたことは、この点で、句の感覚性をいちじるしく高めたと思う。
しかし、「瓜の土」だと、朝露にぬれた土の新鮮さは出てこない。「土」よりも「泥」の方が、朝露が光るだけになまなましく切実である。「泥」は「土より土らしく」といえるのではなかろうか。「土」が抽象表現に近いならば、「泥」は具象そのものである。
「土より土らしく」と書いて、『花より花らしく』の著のある洋画家の三岸節子を思いおこした。彼女は、終生、花をモチーフとしたことでよく知られている。
著書が示すように、現実の花を超えて萎えない花、色褪せない花を描くことが、究極の念願であった。もちろん、現実には、眼前の現物の花を手がかりとして、いつまでも色褪せず、不滅の花を描くことで、「花より花らしく」具象的に表現することを目的としている。
まさにこのことは、俳句にも通じる、非常に大切なことである。
季語は「瓜」(まくわうり)で夏。「露」は秋の季語、「涼し」は夏の季語であるが、「瓜」が強くはたらいているので「瓜」としたい。瓜の感触が非常に生きている使い方。元禄七年六月、京都嵯峨での作。
「朝露にしっとりと濡れたもぎたての瓜。少し泥のついてよごれているのが、
かえっていかにも新鮮で、涼しく感じられる」
風鈴の舌からことば尽くるなし 季 己
※ 舌(ゼツ)
初案は、
朝露や撫でて涼しき瓜の土
であった。しかし、それでは、触覚によって瓜についた土の涼しさを感じとったことになり、やや大げさな身振りが気になる。
中七が下五に続く修飾語のかたちをとっているので、上五に切字「や」を用いたのである。
だが、「朝露」と「瓜の土」とが、二物配合に近い印象を与えることになり、感覚の新鮮さが必ずしも出てはいないようにおもう。
再案が、視覚的把握によって句を統一し、中七に休止を置いた構成にしたことは、この点で、句の感覚性をいちじるしく高めたと思う。
しかし、「瓜の土」だと、朝露にぬれた土の新鮮さは出てこない。「土」よりも「泥」の方が、朝露が光るだけになまなましく切実である。「泥」は「土より土らしく」といえるのではなかろうか。「土」が抽象表現に近いならば、「泥」は具象そのものである。
「土より土らしく」と書いて、『花より花らしく』の著のある洋画家の三岸節子を思いおこした。彼女は、終生、花をモチーフとしたことでよく知られている。
著書が示すように、現実の花を超えて萎えない花、色褪せない花を描くことが、究極の念願であった。もちろん、現実には、眼前の現物の花を手がかりとして、いつまでも色褪せず、不滅の花を描くことで、「花より花らしく」具象的に表現することを目的としている。
まさにこのことは、俳句にも通じる、非常に大切なことである。
季語は「瓜」(まくわうり)で夏。「露」は秋の季語、「涼し」は夏の季語であるが、「瓜」が強くはたらいているので「瓜」としたい。瓜の感触が非常に生きている使い方。元禄七年六月、京都嵯峨での作。
「朝露にしっとりと濡れたもぎたての瓜。少し泥のついてよごれているのが、
かえっていかにも新鮮で、涼しく感じられる」
風鈴の舌からことば尽くるなし 季 己
※ 舌(ゼツ)