こがらしや何に世わたる家五軒 蕪 村
発想・構成ともに、
さみだれや大河を前に家二軒 蕪 村
の句と酷似している。
五月雨(さみだれ)の大河の水勢と、二軒の家の姿の無力さとを対照させたように、この句では、鳴り渡る木枯(こがらし)の激しさと、五軒の家のたたずまいの儚(はかな)さとを対照させたのである。
「大河を前に」が具体的・客観的であるのに対し、「何に世わたる」が説明的・主観的表現であることだけが相違している。具体的なだけに、「さみだれ」の句の方が一般人に理解されやすく、したがって有名になっている。
漁業や樵夫(きこり)も成り立たないはずの、広野の一角であるという判断から、「何に世わたる」の疑問がわいてくるのである。
「家五軒」という数の限定は、蕪村の常用手段である。「十軒」ならば一応まとまった単位となるのに、その半数であってみれば、をも形成しかねるとの感じが強いのである。
季語は「こがらし」で冬。「こがらし」は、「木枯」あるいは「凩」と書く。初冬に吹く強い空っ風。木々の葉を吹き落として枯木のような姿にしてしまうので、「木枯」という。
「海にも臨まず、山にも臨まず、あたりに田畑さえない荒れ地に、
たった五軒の家がたむろしている。いったい何によって暮らしを
立てているのであろうと、見る目にも心もとない。その心もとな
い家が、それぞれ固く閉ざして、鳴り渡る木枯に吹きさらされて
いる」
冬晴や癌をかかへる人の顔 季 己
発想・構成ともに、
さみだれや大河を前に家二軒 蕪 村
の句と酷似している。
五月雨(さみだれ)の大河の水勢と、二軒の家の姿の無力さとを対照させたように、この句では、鳴り渡る木枯(こがらし)の激しさと、五軒の家のたたずまいの儚(はかな)さとを対照させたのである。
「大河を前に」が具体的・客観的であるのに対し、「何に世わたる」が説明的・主観的表現であることだけが相違している。具体的なだけに、「さみだれ」の句の方が一般人に理解されやすく、したがって有名になっている。
漁業や樵夫(きこり)も成り立たないはずの、広野の一角であるという判断から、「何に世わたる」の疑問がわいてくるのである。
「家五軒」という数の限定は、蕪村の常用手段である。「十軒」ならば一応まとまった単位となるのに、その半数であってみれば、をも形成しかねるとの感じが強いのである。
季語は「こがらし」で冬。「こがらし」は、「木枯」あるいは「凩」と書く。初冬に吹く強い空っ風。木々の葉を吹き落として枯木のような姿にしてしまうので、「木枯」という。
「海にも臨まず、山にも臨まず、あたりに田畑さえない荒れ地に、
たった五軒の家がたむろしている。いったい何によって暮らしを
立てているのであろうと、見る目にも心もとない。その心もとな
い家が、それぞれ固く閉ざして、鳴り渡る木枯に吹きさらされて
いる」
冬晴や癌をかかへる人の顔 季 己