葱買うて枯木の中を帰りけり 蕪 村
芥川龍之介が「俳句に於ける近代は此句より始まる」と断じて以来、同様の意味の言葉を口にする者が増えてきた。しかし、「意味」の世界からほとんど完全に縁を絶って、感覚そのものの存在価値を主張したという意味での「蕪村における近代」は、決してこの一句の上にのみ認められるものではない。ただ、この一句が、特殊な題材を扱わず全体の姿が単純であるだけに、そこにこめられた近代的感覚の鋭敏さが、顕著に眼を惹(ひ)くのである。
「ねぎこうて」「かれきのなかを」「かへりけり」
と、「カ行」の音による整調が、葱と枯木との与える冷たく固い感覚に合致し、全体のすらりとした単純な形式とも調和している。
季語は「葱」で冬。「枯木」も冬の季語であるが、ここでは「葱」が主で、「枯木」が従。
「葱一把を買って、手に提げながらたどってきた家路は、いつしか
枯木立に両側を囲まれた場所へかかった。ここは、しいんと静か
に大気の動きさえない。葱と枯木、小と大の差こそあれ、共にす
らりと細く、共に眼に沁むように寒々と白い。いつしか我が身さ
え細々と、また寒々となったような気がしながら、なおも歩みつ
づけてゆく」
矢切葱 菰巻にして渡し船 季 己
芥川龍之介が「俳句に於ける近代は此句より始まる」と断じて以来、同様の意味の言葉を口にする者が増えてきた。しかし、「意味」の世界からほとんど完全に縁を絶って、感覚そのものの存在価値を主張したという意味での「蕪村における近代」は、決してこの一句の上にのみ認められるものではない。ただ、この一句が、特殊な題材を扱わず全体の姿が単純であるだけに、そこにこめられた近代的感覚の鋭敏さが、顕著に眼を惹(ひ)くのである。
「ねぎこうて」「かれきのなかを」「かへりけり」
と、「カ行」の音による整調が、葱と枯木との与える冷たく固い感覚に合致し、全体のすらりとした単純な形式とも調和している。
季語は「葱」で冬。「枯木」も冬の季語であるが、ここでは「葱」が主で、「枯木」が従。
「葱一把を買って、手に提げながらたどってきた家路は、いつしか
枯木立に両側を囲まれた場所へかかった。ここは、しいんと静か
に大気の動きさえない。葱と枯木、小と大の差こそあれ、共にす
らりと細く、共に眼に沁むように寒々と白い。いつしか我が身さ
え細々と、また寒々となったような気がしながら、なおも歩みつ
づけてゆく」
矢切葱 菰巻にして渡し船 季 己