壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

三日月

2010年11月03日 20時55分20秒 | Weblog
          三 日
        何事の見たてにも似ず三日の月     芭 蕉

 「三日の月」は、「みかのつき」と読む。この句には、初案、再案と思われるものが残っていて、次のように改案して、決定稿に至ったようである。

      (初 案)ありとあるたとへにも似ず三日の月
        ↓
      (再 案)ありとある見立てにも似ず三日の月
        ↓
      (決定稿)何事の見たてにも似ず三日の月

 言おうとするところは、三日月の趣に驚いた心で、古来、あるいは利鎌(とがま)に、あるいは眉・櫛に比べられてきたが、自分の目で見ると、既成のどの比喩でも言い表しがたい趣であったというのである。
 初案の「ありとある」という緊迫した生々しいひびきは、その点では捨てがたいものがある。
 この三日月に、自分の驚きを見出している態度そのものは、既成の情趣に甘んぜず、その底を踏み抜いてゆく探求の態度なのであるが、句としては、その新しい発見が具象化されておらず、観念的であり、解説的になって、印象が弱いようだ。 貞享五年(1688)七月三日、もと名古屋市西区替池町の地にあった円頓寺で詠まれたものという。

 季語は「三日の月」で秋。

    「三日月は、古来さまざまな形になぞらえて、その美しさが言われ、
     漢詩にも古歌にも種々な比喩が行なわれているが、いま自分の
     目で見るとそれは、そのどれにも似ていないで、全く異なった独自
     の美をそなえていることだ」


      人の道水の道にも三日の月     季 己