壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

荒れたきままの

2010年11月13日 22時34分37秒 | Weblog
          人の庵をたづねて
        さればこそ荒れたきままの霜の宿     芭 蕉

 「荒れたきままの」が実にいい。「荒れたるままの」と表現すれば無難でわかりやすい。しかし、それでは傍観者の表現にとどまる。杜国の隠棲の身の上への芭蕉の痛嘆は、そんな生ぬるい傍観者的な描写では飽き足らないほどの切実さで盛り上がって、一気に「荒れたきままの」と緊迫した発想になっていったに違いない。貞享四年(1687)十一月十三日の作。

 前書の「人」は、『笈日記』によれば、門人の杜国。
 「さればこそ」というのは、隠棲の生活がこうもあろうかと思っていたが、はたしてその通りの事実を眼前にして、驚きの衝(つ)きあげる気持を表している。
 「荒れたきままの」は、荒れたいままに荒れた、の意で、荒れ放題の、という気持である。

 季語は「霜」で冬。実在の霜のはたらきだけでなく、不幸な生活を強いられている宿という〈こころ〉をこめた使い方である。

    「杜国をたずねてやって来たが、そういう隠棲の身では、さぞかし
     こうもあろうかと思っていたまさにそのとおりに、これはまあ、荒れ
     放題に荒れてしまった霜枯れの宿に、寒々と住み堪えていることよ」


     持ちなほす紺の風呂敷 霜明り     季 己