壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

留守の間に

2010年11月08日 23時19分59秒 | Weblog
        留主の間に荒れたる神の落葉かな     芭 蕉

 初冬の荒れはてた神の祠(ほこら)を見つけた。それを神無月の俗説にもとづき、「神無月」という名辞にすがって発想したもの。季語の組み込み方にも工夫が見られる。「留主の間に」という発想には、自分も旅をつづけて留守にしていたことを、ふりかえっている心の動きが読み取れる。

 『蕉翁句集』に、貞享五年の作とするが、長旅を終えた後の感慨をこめたふしがあり、また「神の留守」を季語とする点で、
        都出でて神も旅寝の日数かな
 に類似するので、十月二十九日(または十一月一日)江戸に帰着した元禄四年の作と考えたい。
 貞享五年も『笈の小文』およびそれに引き続く『更科紀行』の旅から帰った年であるが、帰庵は八月で季が合わない。

 「留主の間に」は、下の「神」の語がかかわり、「神の留主の間に」の意と解したい。
 「神の留主(留守)」というのは陰暦十月のこと。(拙ブログ、2009/11/27「神の旅」を参照頂ければ幸いである)
 「神の落葉」は神域の落葉の意。

 「神の留守」の句で冬季。神の留守によって自分の留守をいうので、俳諧的な使い方である。「落葉」も冬の季語であるが、この句では、「神の留守」につつみこまれて使われている。

    「出雲へ旅立たれた神の祠は、神が留守の間に荒れ果てて、びっしり
     落葉が降りたまっていることだ」


      まだ楠の匂ふ表札 神の留守     季 己