壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

畠の小石

2010年11月10日 22時47分05秒 | Weblog
        こがらしや畠の小石目に見ゆる     蕪 村

 「目に見ゆる」の語があるので、この景の中をたどってゆく一人の人間の感覚が、句の中心になっていることがわかる。
 「こがらし(木枯)」は、いわゆる〈空っ風〉であるから、空は晴れているのが普通である。
 「小石目に見ゆる」は、畠(はたけ)の面の、何物をも止めないような冬ざれの実景を伝えると同時に、木枯によって研がれた大気の、いやに明るく、いやに醒めきった澄明さを、実にはっきりと表している。蕪村の近代的な感覚の鋭敏さが、よく感じられる。

 この句の初案らしい
        木がらしや畑にちいさき石も見へ
 の句が、ある本に見える。(「見へ」の「へ」は「え」が正しく、「畑」は「はた」と読む。)
 「見え」の連用形での結びも、「見ゆる」に比べて緩んでおり、「畑に」の「に」、「石も」の「も」も共に、説明に流れすぎる
 「畠の小石」と、具体的に小石そのものに注意を集中させ、「目に見ゆる」と、見る人間が受け取った、印象の鮮明さを打ち出したのには及ばない。

 リズムの上からいっても、このように表現することによって、
    「こがらし」「はたいし」
 と「カ行」の音による統一が利くことになり、
    「ゆる」    
 の「マ行」の音の畳みかけも、結尾として力強くふさわしいものとなる。

 「こがらし」に「石」を配合するだけならば決して斬新とはいえない。現に蕪村にも
        こがらしや野河の石をふみわたる
        こがらしや鐘に小石を吹きあてる
        凩や小石のこける板ひさし
 などの句がある。
 この「畠の小石」の句は、これらの諸句のような、知的連想の作為の跡がほとんどなく感覚による生き生きとした直接さにおいて、ぬきんでている。

 季語は「こがらし」で冬。

    「見渡すと畑ばかりの野道、ほかに吹き当てる対象を持ち得ない木枯が、
     いやというほどに我が身の上に殺到してくる。畑の面は、作物の名残さ
     えとどめず、畝の形さえ消えて、ただ乾き切った白っぽい土が、はてし
     なく広がっている。たまさか小石一つ、その上に転がっていても、その
     姿がいやというほどはっきりと目にとまる。


      暮六つの鐘かつさらふ空つ風     季 己