壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

陽炎

2010年02月23日 20時32分06秒 | Weblog
          冬の紙子いまだ着かへず
        陽炎の我が肩に立つ紙子かな     芭 蕉

 いち早い春の訪れに驚くとともに、あらためて自己をふりかえっている心である。大垣を訪れての吟であることが知られるが、単なる属目吟にとどまらず、いわば自省の句として独立させようとしたものであることが、「冬の紙子いまだ着かへず」という前書きからわかる。
 紙子が冬のもので、おそらく着古したそれであることを心におくと、意外な発見に驚き、自己をあらためてふりかえっている気持ちがくみとれる。ことに、中七に据えられた「我が肩に」という把握には、驚きのみならず慎ましい喜びのひびきが感じられる。それは、「三月節句過ぎ早々、松島の朧月見にと思ひ立ち候。白河・塩釜の桜御羨ましかるべく候」(元禄二年二月十五日付桐葉宛書簡)とある、その時期の近きに踊り立つ心でもある。

 「紙子」は、白い厚紙に柿渋を塗り、かわかして夜露にさらし、揉みやわらげて仕立てた衣服のこと。もと律宗の僧が用いた。「紙衣」とも。
 「陽炎(かげろう)」は、水蒸気が上昇するとき、空気が乱され、遠くの物体が浮動して見える現象。古くは、曙光・火炎・蜻蛉・蜘蛛の糸など、ちらちら光るものすべてに言ったようだ。古人は、物のすべてがゆらぎはじめる様子に、神秘と畏敬の念を持ちつつ、人間のいのちの姿、あるいは存在そのものを感じ取ってきたのである。

 「陽炎」が季語で、春。「陽炎」の本質を把握したもの。芭蕉の、陽炎に対する繊細微妙な感じ方がよくあらわれている。

    「冬のよそおいである紙子を着たままの肩に、ふと気がつくと、ゆらゆらと陽炎が立って、
     早くも春の気配が感じられることだ」


      上げ潮の息ゆるやかに葦めぶく     季 己