壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

蒲団や寒き

2010年02月13日 22時26分09秒 | Weblog
          李下が妻の悼み
        被き伏す蒲団や寒き夜やすごき     芭 蕉

 『新古今集』巻十九神祇歌の
        夜や寒き 衣やうすき かたそぎの
          ゆきあひのまより 霜やおくらん
 の口調を学んだのであろうと、考えられている。

 李下は、蕉門初期の門人であるが、詳しい伝はわからない。
 「すごし」は、寒く冷たく、骨身にこたえるようなさびしい感じをいう語。

 「蒲団」が季語で冬。これはもちろん掛け蒲団。貞徳の『俳諧御傘』によると、衾(ふすま)は、哀傷や恋に関係が深いものとして意識されたようである。この蒲団も、そういう気持ちが底にあったものであろう。「寒し」も冬の季語である。

    「李下が、連れ添った妻を喪(うしな)って、かなしみに沈んでいる。李下にとって、今は
     独り寝のひきかぶって伏している蒲団が、寒く感ぜられているだろうか、それとも、この
     夜ごろの寂しさが身に沁みているだろうか。寒さ、すごさ相まって、妻を喪うた悲嘆をい
     よいよ深刻なものとしていることであろう」


      底冷えや母の座椅子のきしきしと     季 己

俳句は心敬

2010年02月12日 22時18分07秒 | Weblog
 もうひとつ、「水の歌びと」(http://moon.ap.teacup.com/isuzu/)というブログをもっている。
俳句の初心者、あるいは「これから俳句を始めてみよう」という方のために、書き始めたものである。
 2004年9月から2007年7月まで50回にわたり、『ささめごと』の口語訳とその解説を書き継いだものだが、昨日、その書籍化したものが出来上がってきた。
 改めて読み直したところ、かなりの加筆・修正の必要を感じた。これから三ヶ月ほどかけて書き直し、『俳句は心敬』と改題して、私家版の文庫本を少部数発行するつもりでいる。

 『ささめごと』は、室町中期の歌人、連歌師である権大僧都心敬の主著である。心敬が故郷の紀州に帰った折り、その近辺の者たちが、連歌を稽古するための指南書を懇願した。それにこたえて書かれたのが『ささめごと』である。
 心敬は『ささめごと』のなかで、「句を幽玄に詠むことは大事であるが、それは単に表現の問題ではなく、作者の心の持ち方が大事なのだ」と、説いている。
 つまり、句を上手に作ることが目的ではなく、自分自身の句を作って、心の安らぎをおぼえ、生きている喜びを感ずることが大事なのだ、と云っているのだ。
 心敬はまた、心の底から優美で、あらゆるものをやさしく、美しく見ることができるのが大事だ、とも云っている。
 これこそが、変人の目指す俳句なのだ。だから、「俳句は心敬」なのである。

 ほんとうにすぐれた句は、人間として真に誠実に生きている人でなくては、詠めないと思う。俳句を詠むということは、つまりは心の修行なのだ。人生修行と俳句修業とは、決して別のものではない。俳句の修業が即、人生修行なのである。これは俳句の世界に限らず、すべての世界に通じることではなかろうか。


      人送りきて春星のもう見えぬ     季 己

あられせよ

2010年02月11日 22時38分36秒 | Weblog
        あられせよ網代の氷魚煮て出さん     芭 蕉

 門人たちとの親しい交わりがしのばれる作である。もちろん即興の句である。門人たちに語りかけ、霰(あられ)に呼びかける口調が、訪問客を迎える喜びはずんだ心を、生き生きと伝えている。

 上五を「あられせば」・「みぞれせば」とする伝本がある。
 「あられせば」と「みぞれせば」とでは、心のからりとしたはずみ、および氷魚のひきしまった感じを出すために、当然「あられ」でなければならない。
 また、「あられせば」と「あられせよ」とでは、後者の方が、句形が整うように感じられる。「あられせば」だと、氷魚もまた仮定のことになってしまい、観念に傾きすぎよう。

 「網代(あじろ)」は魚をとる仕掛け。川の瀬に、網を引く形に竹や木を打ち並べ、出口に簀をかけ魚を誘導してとらえるもの。京都の宇治川のものが名高い。
 「氷魚」は、「ひうお」あるいは「ひお」という。鮎のふ化後、一、二ヶ月を経た稚魚のこと。半透明白色、体長二、三センチ。琵琶湖産のものが特に名高く、田上(たなかみ)や宇治川の網代でとるという。

 「あられ」・「網代」・「氷魚」の、いずれも冬の季語であるが、「あられ」が強くはたらいている。「あられ」そのものが、句の風趣を添える使い方。

    「わざわざ草庵を訪うていただき、まことにかたじけない。幸い、この地特産の、網代でとれた
     氷魚が少しあるので、ひとつそれを煮ておもてなししよう。時に、この氷魚にふさわしく霰が
     ひとしきり降ってほしいものだ。そうすれば、この席にいちだんと趣が添うのだが……」


      春雪といへど十指のしびれなほ     季 己

夜着

2010年02月10日 23時14分55秒 | Weblog
        夜着は重し呉天に雪を見るあらん     芭 蕉

 漢詩文のパロディーをめざした発想である。単なる言葉遊びに終わらず、生活感情がにじみ出ているところがよい。代表的な天和年代(1681~1684)の発想である。

 「呉天に雪を」は、漢詩の裁ち入れで、宗の「僧を送る」の詩中に、「笠ハ重シ呉天ノ雪」というのがあるが、これを借りたもの。
 「呉天」は、呉の国の空。呉は、中国の揚子江河口に近いあたり、今の江蘇省の辺をいう。「笠ハ重シ」を江戸生活に引き下ろして、「夜着は重し」としたもの。

 「夜着」も冬の季語であるが、ここは「雪」がはたらいている。しかし、雪はまだ直接の感動源とはなっていない。

    「夜が冴えて、夜着がひとしお重く身に感じられる。どこか遠くでは、さだめし雪が降って
     いるのであろう」
   

      良寛を愛でて信濃は雪の中     季 己

雨宝童子

2010年02月09日 22時36分22秒 | Weblog
 伊勢神宮のお膝元、三重県には天照大神が、天から山の頂上に降りてきた、という伝説をもった霊山がある。伊勢神宮の内宮からおよそ5㎞の北東にある、標高553メートルの朝熊山(あさまやま)がそれである。
 朝熊山は、伊勢神宮の艮(うしとら)の鬼門に当たる山で、三重県第一の霊山信仰の聖地ともいわれている。山の頂に、弘法大師空海が開基したと伝えられる金剛証寺(こんごうしょうじ)の伽藍(がらん)がある。
 伊勢神宮は、平野に位置する里宮に対して、金剛証寺は、山宮として崇敬され、神宮の鎮守寺奥の院と言われている。「お伊勢参らば朝熊(あさま)をかけよ。朝熊かけねば片参り」と俚謡にうたわれ、両方にお参りするのが「お伊勢参り」だった。

 この金剛証寺に、『雨宝陀羅尼経』の教えに基づいて刻まれた木像「雨宝(うほう)童子像」が安置されている。最古の雨宝童子像ということで、国の重要文化財に指定されている。
 頭の上に五輪塔をのせ、髪を長く垂らし、右手に金剛宝棒、左手に宝珠を持って立ち、唐服に身を包んだ、豊満な童女の姿をしている。
 この姿は、天照大神が日向国に現れたときの姿で、大日如来の化現したものとされている。伝説として、弘法大師が修行中に「天照大神の姿を感得」し、自ら刻んだ像である、と云われている。
 雨宝童子が神像であることは、金剛証寺の本堂の前の鎮守の社にまつられていたことでわかる。しかし寺では、これを「雨宝さん」と呼んで、仏とみなしている。つまり、天照大神の本地仏(ほんじぶつ)である大日如来が、天からこの山上に垂迹(すいじゃく)して雨宝童子になった、というのだろう。したがって、この雨宝童子は、天照大神の本地仏ということになる。

 朝熊山の山上に、竜池(りゅうち)と呼ばれる池があり、五十鈴川沿いの村々では、ひでりのときには、岳御池替(たけおいけがえ)といって、この池をさらい雨乞いをすることになっている。
 伊勢・志摩一帯の村では、死者があると必ずその遺髪をこの金剛証寺の奥の院に納め、塔婆(とうば)をたてる。あたかも高野山に似た信仰を持っている。これらの村びとにとっては、その祖先の霊魂の集まる霊山と、信じられていたのであろう。

 昨年夏、東京国立博物館で催された「伊勢神宮と神々の美術」展に、この「雨宝童子像」が出展されたが、その、あまりの精神性の高さに、4回通ったほどである。
 また、「雨宝童子像」というと、長井武志作「雨宝童子」(木彫・檜材)も忘れられない作品である。今でも、手元に置きたいと思っているが……。


      この山の池より湧きて春の雲     季 己

野老掘

2010年02月08日 22時07分26秒 | Weblog
          菩提山
        此の山のかなしさ告げよ野老掘     芭 蕉

 菩提山の盛時をしのぶ気持を、衰退の「かなしさ」として把握し、これを野老掘(ところほり)に呼びかける形にした発想である。初案の上五は「山寺の」であったが、これよりは「此の山の」のほうが、句はぐっと生動してくる。「山寺の」は、傍観する姿であるが、「此の山の」になると、眼前の荒廃と滲透しあって、芭蕉がその境地の中に深く入り込んでいるからである。

 「菩提山」とは、伊勢の朝熊山(あさまやま)の近く、神宮寺のことをいう。西行谷の東330メートルほどの所にあり、聖武天皇勅願寺(ちょくがんじ)で、開基は行基。往事は非常に壮大なものであったが、火災によって、芭蕉が訪れた当時は衰微していた。西行に、
    「伊勢にて菩提山上人、対月述懐し侍りしに、
       めぐりあはで 雲のよそには なりぬとも
          月になれゆく むつびわするな」(『西行法師歌集』)
 という歌がある。句意には直接関係ないが、芭蕉が、この山に関心を持ったのは、西行のこの歌の心にひかれたに違いない。

 「野老」は、ヤマイモ科の植物で、春、細い蔓(つる)を出して物に巻きつく。ヤマイモに似る。多くの細根をもち、老人のひげを思わせるので「野老」と書かれるという。正月の飾り物とし、また苦みを抜き、ご飯に混ぜて食べる。

 「野老掘」が季語で春。「此の山のかなしさ告げよ」というややあらたまった呼びかけが、「野老掘」に対してなされているところに、和歌などと違った俳諧味が生かされていると思う。老いのかなしみを感じさせる効果がある。

    「この山は昔、伽藍盛大を極めたと聞くが、いま見るとその往事をしのぶよしもなく、ただ、
     ひっそりと野老掘る人がいるばかりである。野老掘る里人よ、この山の荘厳(しょうごん)
     の滅び去っていったかなしさを我に語り聞かせておくれ」


      枯るるなか五右衛門風呂を焚くといふ     季 己

北の梅

2010年02月07日 21時59分55秒 | Weblog
        暖簾の奥物ふかし北の梅     芭 蕉

 『菊の塵(ちり)』(園女編)に、園女(そのめ)が自分に贈られた句として掲出。贈られたのを元禄三年(1690)二月のこととしている。しかし、貞享五年(1688)二月の、伊勢における作九句を並記する真蹟懐紙中に、「一有が妻」と前書きして出る句なので、年代は園女の記憶違いであろう。

 園女を訪ねた折の句で、「暖簾」は「のうれん」と読むが、挨拶の意がこめられていることはもちろんである。「物ふかし」は、家の森閑(しんかん)とした落ちつきが出るが、人への心の傾きが出ていない憾(うら)みがある。その点、誤伝と考えられる中七の「ものゆかし」の句形も捨てがたく思われる。

 園女は、伊勢松坂の人で秦氏。のち大坂に住み、江戸に移った。後年、落飾して智鏡尼と称したという。医を業とし、『あけ鴉(がらす)』を撰した斯波(しば)一有に嫁した。元禄七年に大坂で芭蕉を招いたとき、芭蕉は、「白菊の目にたてて見る塵もなし」と詠んでいる。

 「北の梅」は、北庭に咲いている梅。一家の主婦のいる部屋は北に設けられ、ここから「北の方」の呼称も生まれているので、「北」は人妻を暗示する言葉である。北の方はまた北堂ともいう。
 「ゆかし」は、何となくなつかしくて心ひかれるさま。

 「梅」が季語で春。梅の清楚さが的確につかまれている。

    「園女を訪ねると、暖簾の間から奥の方が見え、北庭の梅が楚々と咲いている。まことに
     奥深い感じで、女主人のしとやかな人柄にふさわしく感じられる」


      不忍池のさざなみ早春賦     季 己

具象化

2010年02月06日 22時29分48秒 | Weblog
          伊勢山田
        何の木の花とは知らず匂ひかな     芭 蕉

 伊勢神宮の外宮の神前にぬかずいたとき、芭蕉は、その尊信する西行の古歌
     「何事の おはしますをば 知らねども かたじけなさの 涙こぼるる」
 を心にし、古人のあとにしたがってその一語一語を噛みしめつつ、神前でのかたじけなき思いを自分のものにしたのであろう。その思いを、折しも匂ってきた何の木のものともわからぬ花の匂いで、具象化したのである。つまり、この花の香は、さだかに何の木のそれとはいえないが、限りなく心をひかれるというのであって、そこが神前にぬかずいたときの、はっきり言い表せない宗教的感情と通ずるわけである。
 杉山杉風(さんぷう)宛書簡によれば、貞享五年(1688)二月四日、伊勢神宮外宮参拝の際の作。

 「花」が季語で春。何の木の花かわからぬ微妙な香りと、なぜかわからぬ感動との感合に、高度の形象化が行なわれている。

    「この神前にぬかずくと、何の木の花の香なのかはわからぬが、何ともいいようのない尊い匂いが
     感じられる。西行上人の歌も思い合わせられて、涙がこぼれるばかりにかたじけない思いがする」


      盆梅の母の吐息のごとこぼる     季 己   

牛も初音と

2010年02月05日 22時04分35秒 | Weblog
        此の梅に牛も初音と鳴きつべし     桃 青

 天満宮に奉納する句として、天神にゆかりのある梅と牛とを取合わせたもの。ことに「牛も」といって、鶯を内にひそめてしまったところが、俳諧的な趣向である。
 延宝三年(1675)五月、江戸に下った談林の中心人物、西山宗因と一座した折の連句に「桃青」の名が初めて見える。談林の新風に魅せられ、俳諧への執心も高まりつつある時期の作である。
 宗因は梅翁と号したので、「此の梅に」といったところに、梅翁の風、すなわち談林風への初音(はつね)をあげようという、意欲が隠されているのではなかろうか。牛に鈍重な自分が託されているいるのは、もちろんである。

 延宝四年二月の作。「桃青」(芭蕉)と山口信章(素堂)との両吟二百韻第一巻の発句。この二百韻は、『江戸両吟集』としてまとめられ、また『奉納二百韻』とも呼ばれる、天満宮への奉納俳諧である。

 「此の梅に」の、「此の」と強くいっているのは、天満宮社前の梅を強調した発想である。
 「牛も」は「牛までも」の意で、裏に「鶯はもちろん」の意を含んでいる。梅のみならず、牛も天満宮に関係深いものとされた。このことは付合(つけあい)指導書にも見え、牛天神といって牛に乗った菅原道真公をまつったり、境内に臥牛(がぎゅう)の像が奉納されていたりする。
 「初音と」は、自ら進んで初音をしようとする、の意。「初音」は、鶯の初音を意味するのが普通である。
 「つべし」は、完了の助動詞〈つ〉に推量の助動詞〈べし〉が接続したもので、「……に違いない、きっと……のはずだ」の意。つまり、当然の意を確認して強める意を表す。

 「初音」・「梅」が季語で、春であるが、ここでは「初音」に重みがかけられている。

    「初春を寿(ことほ)いで、この天満宮の社前の梅に、鶯は初音をはりあげているが、これに
     誘われて社前の臥牛の像までも、我も初音をしようと、鳴き出すに違いない」


      定年といふ骨休め梅真白     季 己

春立つ

2010年02月04日 21時35分41秒 | Weblog
 二十四節気(にじゅうしせっき)のうちでも、季題としてよく使われるものと、そうでないものとがある。
 「春立つ・立春」は、待ちかねていた“春”を告げるのにふさわしい明るいひびきをもち、使いやすく、受け取りやすい。
 日も長くなっているし、木々の枝や甍(いらか)の光も艶をおびて、「今日から春なのだ」という喜びの詩の誕生を、待ち望んでいるかのようである。
 しかし、“立春寒波”という言葉どおり、気温の方は寒冷の底にある。これ以上寒くはならない――寒の明け――という時候である。
 きょう二月四日は、その立春。
 「国宝 土偶展」(東京国立博物館)で、久々に本物の“縄文のビーナス”に逢ってきた。実物大のレプリカには、毎日お目にかかっているが……

        春立つや新年ふるき米五升     芭 蕉

 この句は再案ののち成ったもので、草庵のわびしいながら満ち足りた心に、素直に滲透した発想となっている。すでに蕉風の域に達しているといってよいかと思う。
 上五を「似合しや」とした初案の形であると、理詰めなところや、「新年ふるき米五升」にわびしい草庵生活にふさわしいと、ことさら興じているところなど、一種のてらいの気持があらわで、天和初年の過渡的な発想が姿をとどめていることになる。

 『三冊子』に、「この句、師のいはく、『似合しや』とはじめ五文字有り。口惜しき事なりといへり。その後は『春立つや』と直りて、短冊にも残り侍るなり」とある。
 「春立つ」が季語。立春のことをいうが、旧暦では新年と重なり合うことが多かった。初案では「新年」が季語。

    「新しい春が立って、この庵にも春らしい気分がただよっている。この新春は、去年の暮れに
     門人の満たしてくれた五升の古米が、そっくり手つかずたくわえられていて、なんとも満ち足
     りた思いがすることだ」


      縄文のビーナスの尻 春立ちぬ     季 己

春の動き

2010年02月03日 22時56分42秒 | Weblog
        枯芝ややや陽炎の一二寸     芭 蕉

 枯芝(かれしば)の上に陽炎(かげろう)がほんの一、二寸、おさなく立ち初めている様子に、春の動きを感じとっているのである。
 自然を微妙に深く観察した佳句で、当時としては、この句のような自然の生かし方は、実に新鮮な句風であった。つまり、自分の気持などを語ったりしないで、逆に、自然を精妙に生かすことで、それに目をそそいで感動している人間が生かされているのである。簡単に言えば、自然に語らせる、ということだ。

 「やや」は、ようやくの意で、ここでは春の初め、陽炎の立ちはじめて、ようやくその形の認められるくらいの感じをいおうとしている。
 「枯芝」は冬であるが、この句では「陽炎」が季語で春。「やや陽炎の一二寸」は、自然を確かに把握した季のはたらかせかたになっている。

    「芝はまだ枯れて、冬の姿のままであるが、その上にすでに陽炎がちらちらもえはじめて、
     ようやく春の気配が動き出していることよ」


      禅寺の竹ほうほうと春を呼ぶ     季 己

今年の春も

2010年02月02日 22時46分46秒 | Weblog
        おもしろや今年の春も旅の空     芭 蕉

 「今年の春も」とあるので、二年ひきつづいて旅中に迎えた春ともとれるが、「いつかもそうだったが、今年もまた」という気持に解したい。旅心がしきりにきざし、それを「おもしろや」と自ら興じているのである。
 『去来文(きょらいぶみ)』の中に、
     「おもしろや今年の春も旅の空」と我叟(わがそう)のすさび、何の事やと
      えさとらぬも、ひとつのむかしとなりにたり。
 と、ある。
 「我叟」は、去来の師である芭蕉のこと。「すさび」は、気慰みのわざ、の意で、「おもしろや」の句を指す。「何の事や……」は、『奥の細道』の旅のことをさしたもの、とする説に従う。「ひとつのむかし」は、一年前、の意。

 「春」の句であるが、「春」の実質でなく、春という語にすがったところが大きい発想。

    「今年の春もまた、旅にあこがれ出ようとしているが、さてさて、この一所不住の境涯も、
     われながらおもしろく感じられることだ」


      すぐ消ゆる雪と思へばかがやけり     季 己

今朝の雪

2010年02月01日 22時55分52秒 | Weblog
        箱根越す人も有るらし今朝の雪     芭 蕉

 挨拶のこころがある句である。こういう想像をする底には、自分の身を置いているところの、人々の暖かさを感じている気持ちがあるからだ。
 「あるらし」は「あるらん」とか、「あるべし」とかいう表現よりも、もっと身近にそれを感じている気持ちである。

 『笈の小文』に、「蓬左(ほうさ)の人々にむかひとられて、しばらく休息する程」とあって出る。「蓬左」は、熱田神宮を蓬莱宮というので、熱田の左(西方)の地、熱田から名古屋一帯の称。
 「蓬左の人々」とは、越人など尾張の弟子たちをさす。
 貞享四年(1687)十二月四日の作。
 季語は「今朝の雪」で冬。

    「今朝起き出してみると、いちめん目をみひらかせるような雪である。今頃、自分がかつて越えて
     きた、あの箱根の険路(けんろ)を、越える人もあるであろう」


      雪晴れや埴輪の巫女は腰かけて     季 己