伊勢山田
何の木の花とは知らず匂ひかな 芭 蕉
伊勢神宮の外宮の神前にぬかずいたとき、芭蕉は、その尊信する西行の古歌
「何事の おはしますをば 知らねども かたじけなさの 涙こぼるる」
を心にし、古人のあとにしたがってその一語一語を噛みしめつつ、神前でのかたじけなき思いを自分のものにしたのであろう。その思いを、折しも匂ってきた何の木のものともわからぬ花の匂いで、具象化したのである。つまり、この花の香は、さだかに何の木のそれとはいえないが、限りなく心をひかれるというのであって、そこが神前にぬかずいたときの、はっきり言い表せない宗教的感情と通ずるわけである。
杉山杉風(さんぷう)宛書簡によれば、貞享五年(1688)二月四日、伊勢神宮外宮参拝の際の作。
「花」が季語で春。何の木の花かわからぬ微妙な香りと、なぜかわからぬ感動との感合に、高度の形象化が行なわれている。
「この神前にぬかずくと、何の木の花の香なのかはわからぬが、何ともいいようのない尊い匂いが
感じられる。西行上人の歌も思い合わせられて、涙がこぼれるばかりにかたじけない思いがする」
盆梅の母の吐息のごとこぼる 季 己
何の木の花とは知らず匂ひかな 芭 蕉
伊勢神宮の外宮の神前にぬかずいたとき、芭蕉は、その尊信する西行の古歌
「何事の おはしますをば 知らねども かたじけなさの 涙こぼるる」
を心にし、古人のあとにしたがってその一語一語を噛みしめつつ、神前でのかたじけなき思いを自分のものにしたのであろう。その思いを、折しも匂ってきた何の木のものともわからぬ花の匂いで、具象化したのである。つまり、この花の香は、さだかに何の木のそれとはいえないが、限りなく心をひかれるというのであって、そこが神前にぬかずいたときの、はっきり言い表せない宗教的感情と通ずるわけである。
杉山杉風(さんぷう)宛書簡によれば、貞享五年(1688)二月四日、伊勢神宮外宮参拝の際の作。
「花」が季語で春。何の木の花かわからぬ微妙な香りと、なぜかわからぬ感動との感合に、高度の形象化が行なわれている。
「この神前にぬかずくと、何の木の花の香なのかはわからぬが、何ともいいようのない尊い匂いが
感じられる。西行上人の歌も思い合わせられて、涙がこぼれるばかりにかたじけない思いがする」
盆梅の母の吐息のごとこぼる 季 己