あさよさを誰まつ島ぞ片心 芭 蕉
松島を恋いあこがれる心を、恋に取りなした即興の句である。
『桃舐集(ももねぶりしゅう)』の伝える「名所のみ雑(ぞう)の句有りたき事なり」という芭蕉の考え方は、芭蕉の季に対する意見を、うかがい知る上でよい参考となろう。つまり、地名を詠んだ句は、雑(季の詞なし)の句であってもいいじゃないか、ということだろう。芭蕉は一応、季語を入れようとしたのであろうが、入れる余地がなかったのだ。地名を詠み込めば、それだけで季語と同じくらいの音数をとってしまうのだから。
『蕉翁句集』に、「此の句いつの年ともしらず、旅行前にやと此所に記す」と付記して、貞享五年の部に納める。句意を考慮すれば、元禄二年(1689)の『おくのほそ道』の旅の直前の句とも考えられる。
「あさよさを」は、「朝夜さを」で、朝も夜も常にの意ととる。
「誰(たれ)まつ島」は、「松」と「待つ」を掛けた言い方。
「片心(かたごころ)」は、ひとり心の隅で思いつづけること。『源氏物語』などでは、いささか関心を寄せることの意に用いている。「片思い」とは異なる。
雑の句で季語はない。
「松島では誰かが自分を待っているとでもいうのであろうか、朝となく夜となく、松島をひとり
恋しく思い続けていることだ」
――「やはり気になる。待っている気がする……」
そんな気がして、抗ガン剤点滴の接続ポンプを着けたまま、銀座の「画廊宮坂」へ行く。『春風―日本画四人展―』の最終日である。
この展覧会には、火曜・木曜と二度お邪魔し、ゆっくりと観させていただいている。おいしいコーヒーと珍しいお菓子をいただきながら。13点の作品を4時間かけて、穴の開くほど観た。その中に1点、心惹かれる作品があった。波根靖恵(はねよしえ)さんの「ツナグ」である。
東京芸大大学院で、『源氏物語絵巻』の模写に携わっただけに、その技術はすばらしい。また、空間処理が実にいいので、余情・余韻が非常によく感じられる。また落款の入れ方にまで心を配っているのがうれしい。描かれている対象と落款とが完全に一体化しているのが、実にすばらしい。
作品の前に立ち、真っ先に落款の(へたくそな)文字が目に飛び込んでくる作品ほどイヤラシイものはない。思わず、絵よりも名前を見せたいのか、と言いたくなる。心当たりの画家さんは、落款の入れ方を波根さんに学んでいただきたい。
「そんなに感動したなら、2度目の時にどうして購入しないの?」とおっしゃる方がおられるかも知れない。「置き場所がない」というのが第一の理由。「若い作家さんの作品を多くの人にもってもらいたい」というのが第二の理由。「その作品と縁があれば、作品は他へは行かず待っていてくれる」というのが第三の理由。
そうして最終日に、「わたしを迎えに来て!」と作品から呼ばれ、売約済みの赤丸が付いていなかったので、「三度の武田」となった次第。
波根さんは、将来有望な作家である。ただ、技術に走り、技術におぼれなければよいがと心配したが、これはどうやら取り越し苦労のようだった。波根さんは、技術よりも心を第一に考えていると言い切る。これを聞いて安心した。
俳句を詠む目的は、心を高めること、魂を磨くことにある、と思っている。絵画も全く同じであろう。
では、魂を磨き、心を高めるにはどうすればよいか。稲盛和夫氏は、『生き方』の中で、次のように述べておられる。
心を磨くために必要な「六つの精進」
①だれにも負けない努力をする
②謙虚にして驕らず
③反省のある日々を送る
④生きていることに感謝する
⑤善行、利他行を積む
⑥感性的な悩みをしない
これらを稲盛氏は、常にご自分にいい聞かせ、実践するよう心がけておられるそうだ。氏のおっしゃるとおり、「六つの精進」は、やはりふだんの生活のうちに実行していくことが肝要と思い、極力まねをするようにしているのだが……。
「ツナグ」といふ思ひや春日てのひらに 季 己
松島を恋いあこがれる心を、恋に取りなした即興の句である。
『桃舐集(ももねぶりしゅう)』の伝える「名所のみ雑(ぞう)の句有りたき事なり」という芭蕉の考え方は、芭蕉の季に対する意見を、うかがい知る上でよい参考となろう。つまり、地名を詠んだ句は、雑(季の詞なし)の句であってもいいじゃないか、ということだろう。芭蕉は一応、季語を入れようとしたのであろうが、入れる余地がなかったのだ。地名を詠み込めば、それだけで季語と同じくらいの音数をとってしまうのだから。
『蕉翁句集』に、「此の句いつの年ともしらず、旅行前にやと此所に記す」と付記して、貞享五年の部に納める。句意を考慮すれば、元禄二年(1689)の『おくのほそ道』の旅の直前の句とも考えられる。
「あさよさを」は、「朝夜さを」で、朝も夜も常にの意ととる。
「誰(たれ)まつ島」は、「松」と「待つ」を掛けた言い方。
「片心(かたごころ)」は、ひとり心の隅で思いつづけること。『源氏物語』などでは、いささか関心を寄せることの意に用いている。「片思い」とは異なる。
雑の句で季語はない。
「松島では誰かが自分を待っているとでもいうのであろうか、朝となく夜となく、松島をひとり
恋しく思い続けていることだ」
――「やはり気になる。待っている気がする……」
そんな気がして、抗ガン剤点滴の接続ポンプを着けたまま、銀座の「画廊宮坂」へ行く。『春風―日本画四人展―』の最終日である。
この展覧会には、火曜・木曜と二度お邪魔し、ゆっくりと観させていただいている。おいしいコーヒーと珍しいお菓子をいただきながら。13点の作品を4時間かけて、穴の開くほど観た。その中に1点、心惹かれる作品があった。波根靖恵(はねよしえ)さんの「ツナグ」である。
東京芸大大学院で、『源氏物語絵巻』の模写に携わっただけに、その技術はすばらしい。また、空間処理が実にいいので、余情・余韻が非常によく感じられる。また落款の入れ方にまで心を配っているのがうれしい。描かれている対象と落款とが完全に一体化しているのが、実にすばらしい。
作品の前に立ち、真っ先に落款の(へたくそな)文字が目に飛び込んでくる作品ほどイヤラシイものはない。思わず、絵よりも名前を見せたいのか、と言いたくなる。心当たりの画家さんは、落款の入れ方を波根さんに学んでいただきたい。
「そんなに感動したなら、2度目の時にどうして購入しないの?」とおっしゃる方がおられるかも知れない。「置き場所がない」というのが第一の理由。「若い作家さんの作品を多くの人にもってもらいたい」というのが第二の理由。「その作品と縁があれば、作品は他へは行かず待っていてくれる」というのが第三の理由。
そうして最終日に、「わたしを迎えに来て!」と作品から呼ばれ、売約済みの赤丸が付いていなかったので、「三度の武田」となった次第。
波根さんは、将来有望な作家である。ただ、技術に走り、技術におぼれなければよいがと心配したが、これはどうやら取り越し苦労のようだった。波根さんは、技術よりも心を第一に考えていると言い切る。これを聞いて安心した。
俳句を詠む目的は、心を高めること、魂を磨くことにある、と思っている。絵画も全く同じであろう。
では、魂を磨き、心を高めるにはどうすればよいか。稲盛和夫氏は、『生き方』の中で、次のように述べておられる。
心を磨くために必要な「六つの精進」
①だれにも負けない努力をする
②謙虚にして驕らず
③反省のある日々を送る
④生きていることに感謝する
⑤善行、利他行を積む
⑥感性的な悩みをしない
これらを稲盛氏は、常にご自分にいい聞かせ、実践するよう心がけておられるそうだ。氏のおっしゃるとおり、「六つの精進」は、やはりふだんの生活のうちに実行していくことが肝要と思い、極力まねをするようにしているのだが……。
「ツナグ」といふ思ひや春日てのひらに 季 己