二十四節気(にじゅうしせっき)のうちでも、季題としてよく使われるものと、そうでないものとがある。
「春立つ・立春」は、待ちかねていた“春”を告げるのにふさわしい明るいひびきをもち、使いやすく、受け取りやすい。
日も長くなっているし、木々の枝や甍(いらか)の光も艶をおびて、「今日から春なのだ」という喜びの詩の誕生を、待ち望んでいるかのようである。
しかし、“立春寒波”という言葉どおり、気温の方は寒冷の底にある。これ以上寒くはならない――寒の明け――という時候である。
きょう二月四日は、その立春。
「国宝 土偶展」(東京国立博物館)で、久々に本物の“縄文のビーナス”に逢ってきた。実物大のレプリカには、毎日お目にかかっているが……
春立つや新年ふるき米五升 芭 蕉
この句は再案ののち成ったもので、草庵のわびしいながら満ち足りた心に、素直に滲透した発想となっている。すでに蕉風の域に達しているといってよいかと思う。
上五を「似合しや」とした初案の形であると、理詰めなところや、「新年ふるき米五升」にわびしい草庵生活にふさわしいと、ことさら興じているところなど、一種のてらいの気持があらわで、天和初年の過渡的な発想が姿をとどめていることになる。
『三冊子』に、「この句、師のいはく、『似合しや』とはじめ五文字有り。口惜しき事なりといへり。その後は『春立つや』と直りて、短冊にも残り侍るなり」とある。
「春立つ」が季語。立春のことをいうが、旧暦では新年と重なり合うことが多かった。初案では「新年」が季語。
「新しい春が立って、この庵にも春らしい気分がただよっている。この新春は、去年の暮れに
門人の満たしてくれた五升の古米が、そっくり手つかずたくわえられていて、なんとも満ち足
りた思いがすることだ」
縄文のビーナスの尻 春立ちぬ 季 己
「春立つ・立春」は、待ちかねていた“春”を告げるのにふさわしい明るいひびきをもち、使いやすく、受け取りやすい。
日も長くなっているし、木々の枝や甍(いらか)の光も艶をおびて、「今日から春なのだ」という喜びの詩の誕生を、待ち望んでいるかのようである。
しかし、“立春寒波”という言葉どおり、気温の方は寒冷の底にある。これ以上寒くはならない――寒の明け――という時候である。
きょう二月四日は、その立春。
「国宝 土偶展」(東京国立博物館)で、久々に本物の“縄文のビーナス”に逢ってきた。実物大のレプリカには、毎日お目にかかっているが……
春立つや新年ふるき米五升 芭 蕉
この句は再案ののち成ったもので、草庵のわびしいながら満ち足りた心に、素直に滲透した発想となっている。すでに蕉風の域に達しているといってよいかと思う。
上五を「似合しや」とした初案の形であると、理詰めなところや、「新年ふるき米五升」にわびしい草庵生活にふさわしいと、ことさら興じているところなど、一種のてらいの気持があらわで、天和初年の過渡的な発想が姿をとどめていることになる。
『三冊子』に、「この句、師のいはく、『似合しや』とはじめ五文字有り。口惜しき事なりといへり。その後は『春立つや』と直りて、短冊にも残り侍るなり」とある。
「春立つ」が季語。立春のことをいうが、旧暦では新年と重なり合うことが多かった。初案では「新年」が季語。
「新しい春が立って、この庵にも春らしい気分がただよっている。この新春は、去年の暮れに
門人の満たしてくれた五升の古米が、そっくり手つかずたくわえられていて、なんとも満ち足
りた思いがすることだ」
縄文のビーナスの尻 春立ちぬ 季 己