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壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

柴胡

2010年02月24日 22時55分19秒 | Weblog
        陽炎や柴胡の糸の薄曇     芭 蕉

 古来、「柴胡の原の薄曇」のほうが、句として大景になって、ずっとよいとの評がある。しかし、柴胡(さいこ)は、夏秋の候は一メートル以上に達するとしても、陽炎(かげろう)の頃なら、そう丈高くなっているはずもない。単に大景を詠んだとみるのは、必ずしも適切な見方ではなかろう。
 陽炎がゆらゆらと立ち上っている、その薄くかげった感じの光のもとで、目にとめてよく見ると、思わず「糸」と呼びたいような、柴胡の細葉の芽生えが発見された趣と見たい。こう見たほうが、大景と見るよりは、はるかに鋭さが生きてくると思う。

 中七「柴胡の原の」とする本があり、古注のたぐいは「原」を支持するものが多い。けれども、「原」は「糸」の草書体を見誤ったものであろうと考えられている。

 「柴胡」は、ミシマサイコの別名で、セリ科の多年草。山野に自生し、高さ約一メートル。葉は線形。秋に多数の黄色小花をつける。根は柴胡とよび、漢方の解熱剤として、古来珍重されてきた。
 「柴胡掘る」は秋の季語となっているが、この句では、陽炎の頃であるからまだ芽である。「柴胡の糸」というのは、柴胡の芽生えの細いものをさしたのであろう。

 「陽炎」が春の季語。『猿蓑』にも陽炎の句として掲出。この句は、「陽炎」の現実体験に触れないと詠みとれないと思われるような、鋭いつかみ方である。

    「陽炎がゆらゆらと立ち上っている。見ると柴胡の細い糸のような芽生えに、薄く陽炎の
     かげが照りくもりしていることよ」


      生かされて不動明王かぎろひぬ     季 己