あら物ぐさの翁や。日比(ひごろ)は人の訪ひ来るもうるさく、
人にも見(まみ)えじ、人をも招かじと、あまたたび心に誓ふ
なれど、月の夜、雪の朝(あした)のみ、友の慕はるるもわり
なしや。物をも言はず、ひとり酒飲みて、心に問ひ心に語る。
庵の戸おしあけて、雪を眺め、又は盃をとりて、筆を染め筆を
捨つ。あら物狂ほしの翁や。
(ああ、何とめんどうぐさがりな爺だこと。日ごろは、人が訪ねて
来るのもうるさく、人にも会うまい、人をも招くまいと、何度も
心に誓うのであるが、ことに月の夜や雪の朝は、友が恋しくなる
のはしかたのないことであろう。物をも言わず、ひとり酒を飲ん
で、自問自答する。庵の戸を押し開けて、降る雪を眺め、あるい
は又、盃を片手に筆をとり、またすぐ、筆を置く。ああ、何とも
気違いじみた爺だこと)
酒飲めばいとど寝られね夜の雪 芭 蕉
徹底した独詠の句である。自らもてあました嘆息が、聴かれるようである。
「酒を飲むと思いがわき上がって、いよいよ眠れない」というので、「夜の雪」は眼前の景である。「酒を飲むといよいよ眠れないが、夜の雪を見ると、慰められる」というのではない。
「深川八貧」のような興じた作品に、芭蕉庵生活の俳交の面を見るとともに、この句などに、孤独の面を見て、あの逸興の姿も、実は、こうした孤独の上に立っているのだと感じないではいられない。
出典は『本朝文鑑』であるが、これからみて、元禄四年以前、前書きよりして深川芭蕉庵での作。該当する年として、貞享三年および元禄元年が考えられるが、『蕉翁句集』にいうごとく、おそらく貞享三年(1686)の作であろう。
「いとど」は、「いよいよ・ますます・さらにいっそう」の意。
「寝られね」の「ね」は、打ち消しの助動詞「ず」の已然形(いぜんけい)。〈係り結び〉といって、「こそ」が上にあり、それを受けて結ぶのが普通であるが、詩歌などでは、「こそ」がなくても強く言う場合に用いられている。ここはそれである。
文語文で、係助詞「ぞ・なむ・や・か」は、連体形で結び、「こそ」は、已然形で結ぶことを〈係り結び〉という。係助詞を「係り」、呼応する活用形を「結び」という。
季語は「雪」で冬。
「夜の雪がしんしんと置いている。これに対していると、自分の寂寥がはっきり感じられて、
酒を飲んでみるのだが、飲むと、いっそうさまざまの思いが胸を去来して、かえって寝つかれ
ないことだ」
点滴をして湯豆腐の浮き沈み 季 己
人にも見(まみ)えじ、人をも招かじと、あまたたび心に誓ふ
なれど、月の夜、雪の朝(あした)のみ、友の慕はるるもわり
なしや。物をも言はず、ひとり酒飲みて、心に問ひ心に語る。
庵の戸おしあけて、雪を眺め、又は盃をとりて、筆を染め筆を
捨つ。あら物狂ほしの翁や。
(ああ、何とめんどうぐさがりな爺だこと。日ごろは、人が訪ねて
来るのもうるさく、人にも会うまい、人をも招くまいと、何度も
心に誓うのであるが、ことに月の夜や雪の朝は、友が恋しくなる
のはしかたのないことであろう。物をも言わず、ひとり酒を飲ん
で、自問自答する。庵の戸を押し開けて、降る雪を眺め、あるい
は又、盃を片手に筆をとり、またすぐ、筆を置く。ああ、何とも
気違いじみた爺だこと)
酒飲めばいとど寝られね夜の雪 芭 蕉
徹底した独詠の句である。自らもてあました嘆息が、聴かれるようである。
「酒を飲むと思いがわき上がって、いよいよ眠れない」というので、「夜の雪」は眼前の景である。「酒を飲むといよいよ眠れないが、夜の雪を見ると、慰められる」というのではない。
「深川八貧」のような興じた作品に、芭蕉庵生活の俳交の面を見るとともに、この句などに、孤独の面を見て、あの逸興の姿も、実は、こうした孤独の上に立っているのだと感じないではいられない。
出典は『本朝文鑑』であるが、これからみて、元禄四年以前、前書きよりして深川芭蕉庵での作。該当する年として、貞享三年および元禄元年が考えられるが、『蕉翁句集』にいうごとく、おそらく貞享三年(1686)の作であろう。
「いとど」は、「いよいよ・ますます・さらにいっそう」の意。
「寝られね」の「ね」は、打ち消しの助動詞「ず」の已然形(いぜんけい)。〈係り結び〉といって、「こそ」が上にあり、それを受けて結ぶのが普通であるが、詩歌などでは、「こそ」がなくても強く言う場合に用いられている。ここはそれである。
文語文で、係助詞「ぞ・なむ・や・か」は、連体形で結び、「こそ」は、已然形で結ぶことを〈係り結び〉という。係助詞を「係り」、呼応する活用形を「結び」という。
季語は「雪」で冬。
「夜の雪がしんしんと置いている。これに対していると、自分の寂寥がはっきり感じられて、
酒を飲んでみるのだが、飲むと、いっそうさまざまの思いが胸を去来して、かえって寝つかれ
ないことだ」
点滴をして湯豆腐の浮き沈み 季 己