雪の夜の戯れに題を探りて、「米買」の
二字を得たり
米買ひに雪の袋や投頭巾 芭 蕉
久しぶりに芭蕉庵に落ちつき、ふだん芭蕉庵に出入りしている親しい門人たちの中にとけこんでいる芭蕉。深川八貧と戯れたり、米買の番にあたって米袋をそのまま投頭巾にしようと興じたりする。そういう心のはずみが口調の上でごく自然に、「雪(行き)」という掛詞をはたらかせるわけで、風狂の体というべき一つであろう。
この句、米袋を投頭巾とする説と、投頭巾を米袋とする説と二説ある。前者の説のように解した方が自然であろう。
「深川八貧」とは、ふだん深川の芭蕉庵に出入りして、風雅の志を一つにした門人たち(依水・苔翠・泥芹・夕菊・友五・曾良・路通)に芭蕉自身を加えて、杜甫の「飲中八仙歌」になぞらえ、たわぶれにいったものであろう。
「題を探りて」は探題のことで、詩歌の会で、与えられたいくつかの題の中から探りとった題で制作すること。
「米買の二字を得たり」というのは、当夜、真木買・酒買・炭買・茶買・豆腐買・水汲・飯炊きおよび米買の八題を置いて句作し、芭蕉は米買にあたったので、その句を詠んだという意味。
「米買ひに雪の袋」というのは、米買いに行くのに雪の中を提げてゆく姿の意で、「雪」に「行き」を掛けた発想。
「投頭巾」は頭巾の一種、四角に縫った上の端を後ろに折ってかぶるもの。米を入れる袋をそのまま頭巾としたのである。
季語は「頭巾」で冬。「雪」も冬季であるが、この句では、「頭巾」がつよくはたらいている。「雪の袋」は、おのずと雪まみれの投頭巾が目に浮かんでくるように、仕立てられている。弾みと勢いを持った表現である。
「米買いに行こうとすると、外はさかんな雪である。そこで、この米袋を即席の投頭巾として
出かけようぞ」
おでん屋の卵ぶつかり不動尊 季 己
二字を得たり
米買ひに雪の袋や投頭巾 芭 蕉
久しぶりに芭蕉庵に落ちつき、ふだん芭蕉庵に出入りしている親しい門人たちの中にとけこんでいる芭蕉。深川八貧と戯れたり、米買の番にあたって米袋をそのまま投頭巾にしようと興じたりする。そういう心のはずみが口調の上でごく自然に、「雪(行き)」という掛詞をはたらかせるわけで、風狂の体というべき一つであろう。
この句、米袋を投頭巾とする説と、投頭巾を米袋とする説と二説ある。前者の説のように解した方が自然であろう。
「深川八貧」とは、ふだん深川の芭蕉庵に出入りして、風雅の志を一つにした門人たち(依水・苔翠・泥芹・夕菊・友五・曾良・路通)に芭蕉自身を加えて、杜甫の「飲中八仙歌」になぞらえ、たわぶれにいったものであろう。
「題を探りて」は探題のことで、詩歌の会で、与えられたいくつかの題の中から探りとった題で制作すること。
「米買の二字を得たり」というのは、当夜、真木買・酒買・炭買・茶買・豆腐買・水汲・飯炊きおよび米買の八題を置いて句作し、芭蕉は米買にあたったので、その句を詠んだという意味。
「米買ひに雪の袋」というのは、米買いに行くのに雪の中を提げてゆく姿の意で、「雪」に「行き」を掛けた発想。
「投頭巾」は頭巾の一種、四角に縫った上の端を後ろに折ってかぶるもの。米を入れる袋をそのまま頭巾としたのである。
季語は「頭巾」で冬。「雪」も冬季であるが、この句では、「頭巾」がつよくはたらいている。「雪の袋」は、おのずと雪まみれの投頭巾が目に浮かんでくるように、仕立てられている。弾みと勢いを持った表現である。
「米買いに行こうとすると、外はさかんな雪である。そこで、この米袋を即席の投頭巾として
出かけようぞ」
おでん屋の卵ぶつかり不動尊 季 己