古畑や薺摘み行く男ども 芭 蕉
若菜摘みにふさわしいのは、袖ふりはえる都人であろう。ところが、それとはうってかわった、風流気もない無骨な男たちが、さっさと摘んでゆくさまは、侘びしい風景であったに違いない。
この古畑(ふるはた)の薺(なずな)摘む男の姿に、都の若菜摘みとはちがった鄙(ひな)びた俳諧の心を感じたものである。
「古畑」は、春になってもまだ耕作されずにある畑のことで、そこに薺などが生えているのである。「古畑に」では句は死んでしまって、単に場所を指定したに過ぎなくなる。「古畑や」となって初めて、眼前にひろがるところの、去年のままに古びた畑が、単なる説明としてではなく生きてくるのである。
「薺」は春の七草の一つ、これが季語で春(新年)。「薺摘み」が、優雅な都人ならぬ、むくつけき男によって行なわれているところを通して、新しく生かされている。
「春になっても、去年の冬のまま荒れた古畑が見える。そこに生い出た薺を、都人ならぬ
無骨な男たちが摘んでゆくことよ」
寒椿あうんの静のつづきをり 季 己
若菜摘みにふさわしいのは、袖ふりはえる都人であろう。ところが、それとはうってかわった、風流気もない無骨な男たちが、さっさと摘んでゆくさまは、侘びしい風景であったに違いない。
この古畑(ふるはた)の薺(なずな)摘む男の姿に、都の若菜摘みとはちがった鄙(ひな)びた俳諧の心を感じたものである。
「古畑」は、春になってもまだ耕作されずにある畑のことで、そこに薺などが生えているのである。「古畑に」では句は死んでしまって、単に場所を指定したに過ぎなくなる。「古畑や」となって初めて、眼前にひろがるところの、去年のままに古びた畑が、単なる説明としてではなく生きてくるのである。
「薺」は春の七草の一つ、これが季語で春(新年)。「薺摘み」が、優雅な都人ならぬ、むくつけき男によって行なわれているところを通して、新しく生かされている。
「春になっても、去年の冬のまま荒れた古畑が見える。そこに生い出た薺を、都人ならぬ
無骨な男たちが摘んでゆくことよ」
寒椿あうんの静のつづきをり 季 己