壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

戒香薫修

2010年01月10日 23時03分06秒 | Weblog
 「戒香薫修」は、「かいこうくんじゅう」と読む。
 仏教でいう「戒」は、他から命じられて守るという他律的な教えではなく、自分で自分の行為を規制する自立的な道である。この点は、カント哲学の倫理思想に似ている。
 仏教思想とカント哲学の違いは、自立を自分の意志とせずに、“ほとけ”の誓いをわが願いとする点である。そこに実践と訓練が求められる。つまり修行が必要となる。修行は、“ほとけ”の誓いにもとづくから「奉行(ぶぎょう)」という。
 奉行といっても、上からの命令を奉じて事を行なう意味ではない。自分の修行を“ほとけ”に奉ることをいう。自分のためにするのではない。
 テレビでおなじみの「お奉行さん」も仏教用語で、本来の奉行の意味は、上記のように、自分の修行(判断)を“ほとけ”に奉る人ということなのだ。

 長年、ソロバン塾や学習塾で子供たちを指導してきたが、「一人を教えるときは、百人に教えるように、百人を教えるときは、一人に教えるように」を実践し、自分自身の生き方を規制してきた。
 ソロバン塾や学習塾は、“水もの”といわれる興行と同じで、ときには、いや、しょっちゅう生徒の少ない日がある。こんなときは、気が乗らぬままに授業をなおざりにするのを、戒めてきた。
 「人間の生徒さんに授業をするから、生徒の人数が苦になるのだ。自分は、“ほとけ”さまに自分の授業を奉るために教壇に立つのだから、生徒の入りや不入りは少しも気にすまい」と。「自分の授業を“ほとけ”さまに献納する」のが、自分の修行であり奉行だと思う。

 「戒香薫修」は、『観無量寿経』に見える。「戒律を保つと、その功徳がしぜんに身にそなわり、やがては広く人々に伝わって、徳高き人と尊敬されよう」という意味で、このことを、芳香が四方に薫るにたとえていう。
 しかし、おなじ香りでも花の香は風に妨げられるが、戒の香りを妨げるものがない事実を、『法句経』(五十四番)は、つぎのようにうたう。
    華の香は 風にさからいては行かず されど善人の香は
    風にさからって薫る 善き人の徳はあまねく薫る


      うつくしき日本語と会ふ成人式     季 己