初雪やいつ大仏の柱立 芭 蕉
諸本の前書きによると、「大仏」は、くわしくは大仏殿とあるべきであろう。また、
雪悲しいつ大仏の瓦葺(かわらふき)
という本もあるが、これが初案であったと考えられる。
斧始めの後も、長く進まなかった大仏殿造営の場に立ち、大仏の顔や肩に降りかかる雪を見ていると、何ともいたましく感ぜられてきた。そこで「雪悲し」と発想されたものと思われる。
しかし、「雪悲し」では、感傷が露出しすぎていて深みがない。「瓦葺」という表現も、大仏殿完成を思い描いて自然なものとはいえようが、規模の壮大さを感じさせる力は乏しい。それらの欠陥が意識されて、大幅な改案がなされたものであろう。
「柱立(はしらだて)」となると、巨大荘厳な大仏殿を思い描くにふさわしい表現である。
「いつ」は、「いったい、いつになったら」のこころで、待ちこがれていることが実現されないことへの嘆きをこめた表現。
「大仏」はここでは、奈良・東大寺大仏殿の意。
「柱立」は、家屋の建築ではじめて柱を立てること。奈良東大寺大仏殿は、治承四年(1180)、平重衡(しげひら)の兵火にかかり、後、俊乗坊重源(しゅんじょうぼうちょうげん)の手で再建された。それが、永禄十年(1567)、松永久秀の兵火にあって焼亡し、大仏のみが露座(ろざ=屋根のないところに坐ること)していた。
その後、竜松院公慶が、再建を志して勧進(かんじん)につとめたが、修復ははかばかしく進まず、芭蕉の詣でた元禄二年(1689)は、前年に斧始めあったままで、まだ、露座の大仏の損傷も修理されないままの状態であったわけである。その後さらに遅れて、柱立のあったのは元禄十年(1697)、竣工は宝永五年(1708)であった。
季語は「初雪」で冬。「初」には賞美のこころがあるはずであるが、ここでは一年も終わりに近く、本格的な冬の訪れを強調した用い方と思われる。
「今年もすでに冬になって、この露座の大仏にちらちら初雪が降りかかっているが、まことに
もったいない気がする。いったい、いつになったら大仏殿の柱立てが行なわれる運びになる
のであろう」
指先が黒ずんでくる小豆粥 季 己
諸本の前書きによると、「大仏」は、くわしくは大仏殿とあるべきであろう。また、
雪悲しいつ大仏の瓦葺(かわらふき)
という本もあるが、これが初案であったと考えられる。
斧始めの後も、長く進まなかった大仏殿造営の場に立ち、大仏の顔や肩に降りかかる雪を見ていると、何ともいたましく感ぜられてきた。そこで「雪悲し」と発想されたものと思われる。
しかし、「雪悲し」では、感傷が露出しすぎていて深みがない。「瓦葺」という表現も、大仏殿完成を思い描いて自然なものとはいえようが、規模の壮大さを感じさせる力は乏しい。それらの欠陥が意識されて、大幅な改案がなされたものであろう。
「柱立(はしらだて)」となると、巨大荘厳な大仏殿を思い描くにふさわしい表現である。
「いつ」は、「いったい、いつになったら」のこころで、待ちこがれていることが実現されないことへの嘆きをこめた表現。
「大仏」はここでは、奈良・東大寺大仏殿の意。
「柱立」は、家屋の建築ではじめて柱を立てること。奈良東大寺大仏殿は、治承四年(1180)、平重衡(しげひら)の兵火にかかり、後、俊乗坊重源(しゅんじょうぼうちょうげん)の手で再建された。それが、永禄十年(1567)、松永久秀の兵火にあって焼亡し、大仏のみが露座(ろざ=屋根のないところに坐ること)していた。
その後、竜松院公慶が、再建を志して勧進(かんじん)につとめたが、修復ははかばかしく進まず、芭蕉の詣でた元禄二年(1689)は、前年に斧始めあったままで、まだ、露座の大仏の損傷も修理されないままの状態であったわけである。その後さらに遅れて、柱立のあったのは元禄十年(1697)、竣工は宝永五年(1708)であった。
季語は「初雪」で冬。「初」には賞美のこころがあるはずであるが、ここでは一年も終わりに近く、本格的な冬の訪れを強調した用い方と思われる。
「今年もすでに冬になって、この露座の大仏にちらちら初雪が降りかかっているが、まことに
もったいない気がする。いったい、いつになったら大仏殿の柱立てが行なわれる運びになる
のであろう」
指先が黒ずんでくる小豆粥 季 己