大津にて、智月といふ老尼のすみかを尋ねて、
己が音の少将とかや、老いの後、此のあたり
近く隠れ侍りしといふを、
少将の尼の咄(はなし)や志賀の雪 芭 蕉
志賀のあたりは、数々の回想を秘めた地であり、特に歌枕でもある。そこに智月尼を訪うて、この地の昔話の一つを聞いたのだ。その「少将の尼」の風雅は、それを語る智月にも通うものであり、また、この地にまつわる風雅のさまざまをも偲ばせずにはおかないような、折からの志賀の雪である。
そこで、志賀の雪を眺めながら、雪に埋もれた里の昔を追想する体に発想したものなのであろう。もちろん、言外におのずと智月が、少将の尼に比せられてきて、そこに挨拶の意もこめられていたことがうかがわれる。
智月は、蕉門俳人。若くして御所に仕え、歌路と呼ばれたという。乙州(おとくに)の母、大津の伝馬役 川井佐左衛門の妻。貞享三年 夫に死別、尼となった。生没年未詳だが、芭蕉より十二、三歳年上と思われる。
「己が音(おのがね)の少将」は、藤原信実の女(むすめ)。後堀河天皇の中宮に仕え、中宮少将と呼ばれたが、「おのが音に つらき別れは ありとだに おもひもしらで 鶏や鳴くらむ」(『新勅撰集』)という歌によって、この名が与えられるにいたった。後、中宮が、藻壁門院と名乗ってからは、藻壁門院少将とも呼ばれ、老後、湖南の坂本に近い仰木(おうぎ)あたりに隠栖したと伝えられている。
季語は「雪」で冬。降る雪や積もった雪というような点ではなく、風雅の情趣を呼び起こすものとして使われている。
「志賀の里のあたりは、いま雪の中にある。ここに智月尼を訪ねて、遠き昔、このあたりに
隠栖したという、あの『おのが音の少将』の尼の話を聞いたが、まことに志賀の雪にふさ
わしい昔語りであった」
ふりむけば雪しんしんと人を恋ふ 季 己
己が音の少将とかや、老いの後、此のあたり
近く隠れ侍りしといふを、
少将の尼の咄(はなし)や志賀の雪 芭 蕉
志賀のあたりは、数々の回想を秘めた地であり、特に歌枕でもある。そこに智月尼を訪うて、この地の昔話の一つを聞いたのだ。その「少将の尼」の風雅は、それを語る智月にも通うものであり、また、この地にまつわる風雅のさまざまをも偲ばせずにはおかないような、折からの志賀の雪である。
そこで、志賀の雪を眺めながら、雪に埋もれた里の昔を追想する体に発想したものなのであろう。もちろん、言外におのずと智月が、少将の尼に比せられてきて、そこに挨拶の意もこめられていたことがうかがわれる。
智月は、蕉門俳人。若くして御所に仕え、歌路と呼ばれたという。乙州(おとくに)の母、大津の伝馬役 川井佐左衛門の妻。貞享三年 夫に死別、尼となった。生没年未詳だが、芭蕉より十二、三歳年上と思われる。
「己が音(おのがね)の少将」は、藤原信実の女(むすめ)。後堀河天皇の中宮に仕え、中宮少将と呼ばれたが、「おのが音に つらき別れは ありとだに おもひもしらで 鶏や鳴くらむ」(『新勅撰集』)という歌によって、この名が与えられるにいたった。後、中宮が、藻壁門院と名乗ってからは、藻壁門院少将とも呼ばれ、老後、湖南の坂本に近い仰木(おうぎ)あたりに隠栖したと伝えられている。
季語は「雪」で冬。降る雪や積もった雪というような点ではなく、風雅の情趣を呼び起こすものとして使われている。
「志賀の里のあたりは、いま雪の中にある。ここに智月尼を訪ねて、遠き昔、このあたりに
隠栖したという、あの『おのが音の少将』の尼の話を聞いたが、まことに志賀の雪にふさ
わしい昔語りであった」
ふりむけば雪しんしんと人を恋ふ 季 己