壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

志賀の雪

2010年01月16日 22時42分24秒 | Weblog
          大津にて、智月といふ老尼のすみかを尋ねて、
          己が音の少将とかや、老いの後、此のあたり
          近く隠れ侍りしといふを、
        少将の尼の咄(はなし)や志賀の雪     芭 蕉

 志賀のあたりは、数々の回想を秘めた地であり、特に歌枕でもある。そこに智月尼を訪うて、この地の昔話の一つを聞いたのだ。その「少将の尼」の風雅は、それを語る智月にも通うものであり、また、この地にまつわる風雅のさまざまをも偲ばせずにはおかないような、折からの志賀の雪である。
 そこで、志賀の雪を眺めながら、雪に埋もれた里の昔を追想する体に発想したものなのであろう。もちろん、言外におのずと智月が、少将の尼に比せられてきて、そこに挨拶の意もこめられていたことがうかがわれる。

 智月は、蕉門俳人。若くして御所に仕え、歌路と呼ばれたという。乙州(おとくに)の母、大津の伝馬役 川井佐左衛門の妻。貞享三年 夫に死別、尼となった。生没年未詳だが、芭蕉より十二、三歳年上と思われる。
 「己が音(おのがね)の少将」は、藤原信実の女(むすめ)。後堀河天皇の中宮に仕え、中宮少将と呼ばれたが、「おのが音に つらき別れは ありとだに おもひもしらで 鶏や鳴くらむ」(『新勅撰集』)という歌によって、この名が与えられるにいたった。後、中宮が、藻壁門院と名乗ってからは、藻壁門院少将とも呼ばれ、老後、湖南の坂本に近い仰木(おうぎ)あたりに隠栖したと伝えられている。

 季語は「雪」で冬。降る雪や積もった雪というような点ではなく、風雅の情趣を呼び起こすものとして使われている。

    「志賀の里のあたりは、いま雪の中にある。ここに智月尼を訪ねて、遠き昔、このあたりに
     隠栖したという、あの『おのが音の少将』の尼の話を聞いたが、まことに志賀の雪にふさ
     わしい昔語りであった」


      ふりむけば雪しんしんと人を恋ふ     季 己

東大寺大仏殿

2010年01月15日 22時51分30秒 | Weblog
        初雪やいつ大仏の柱立     芭 蕉

 諸本の前書きによると、「大仏」は、くわしくは大仏殿とあるべきであろう。また、
        雪悲しいつ大仏の瓦葺(かわらふき)
 という本もあるが、これが初案であったと考えられる。

 斧始めの後も、長く進まなかった大仏殿造営の場に立ち、大仏の顔や肩に降りかかる雪を見ていると、何ともいたましく感ぜられてきた。そこで「雪悲し」と発想されたものと思われる。
 しかし、「雪悲し」では、感傷が露出しすぎていて深みがない。「瓦葺」という表現も、大仏殿完成を思い描いて自然なものとはいえようが、規模の壮大さを感じさせる力は乏しい。それらの欠陥が意識されて、大幅な改案がなされたものであろう。
 「柱立(はしらだて)」となると、巨大荘厳な大仏殿を思い描くにふさわしい表現である。

 「いつ」は、「いったい、いつになったら」のこころで、待ちこがれていることが実現されないことへの嘆きをこめた表現。
 「大仏」はここでは、奈良・東大寺大仏殿の意。
 「柱立」は、家屋の建築ではじめて柱を立てること。奈良東大寺大仏殿は、治承四年(1180)、平重衡(しげひら)の兵火にかかり、後、俊乗坊重源(しゅんじょうぼうちょうげん)の手で再建された。それが、永禄十年(1567)、松永久秀の兵火にあって焼亡し、大仏のみが露座(ろざ=屋根のないところに坐ること)していた。
 その後、竜松院公慶が、再建を志して勧進(かんじん)につとめたが、修復ははかばかしく進まず、芭蕉の詣でた元禄二年(1689)は、前年に斧始めあったままで、まだ、露座の大仏の損傷も修理されないままの状態であったわけである。その後さらに遅れて、柱立のあったのは元禄十年(1697)、竣工は宝永五年(1708)であった。

 季語は「初雪」で冬。「初」には賞美のこころがあるはずであるが、ここでは一年も終わりに近く、本格的な冬の訪れを強調した用い方と思われる。

    「今年もすでに冬になって、この露座の大仏にちらちら初雪が降りかかっているが、まことに
     もったいない気がする。いったい、いつになったら大仏殿の柱立てが行なわれる運びになる
     のであろう」


      指先が黒ずんでくる小豆粥     季 己  

薺摘み

2010年01月14日 22時47分54秒 | Weblog
        古畑や薺摘み行く男ども     芭 蕉

 若菜摘みにふさわしいのは、袖ふりはえる都人であろう。ところが、それとはうってかわった、風流気もない無骨な男たちが、さっさと摘んでゆくさまは、侘びしい風景であったに違いない。
 この古畑(ふるはた)の薺(なずな)摘む男の姿に、都の若菜摘みとはちがった鄙(ひな)びた俳諧の心を感じたものである。

 「古畑」は、春になってもまだ耕作されずにある畑のことで、そこに薺などが生えているのである。「古畑に」では句は死んでしまって、単に場所を指定したに過ぎなくなる。「古畑や」となって初めて、眼前にひろがるところの、去年のままに古びた畑が、単なる説明としてではなく生きてくるのである。
 「薺」は春の七草の一つ、これが季語で春(新年)。「薺摘み」が、優雅な都人ならぬ、むくつけき男によって行なわれているところを通して、新しく生かされている。

    「春になっても、去年の冬のまま荒れた古畑が見える。そこに生い出た薺を、都人ならぬ
     無骨な男たちが摘んでゆくことよ」


      寒椿あうんの静のつづきをり     季 己

一年に一度

2010年01月13日 23時09分31秒 | Weblog
        一年に一度摘まるる薺かな     芭 蕉

 眼前に薺(なずな)を見ての吟であろう。「一年(ひととせ)に一度摘まるる」が感興の中心で、薺に向けられたかすかな愛隣の情が感じられる。
 芭蕉には、貞享三年のころ、「古畑や薺摘み行く男ども」、「よく見れば薺花咲く垣根かな」の作もある。

 『三冊子(さんぞうし)』に、「此の句、その春、文通に聞え侍る。その後、直(じき)に尋ね侍れば、師のいはく『其の頃はよく思ひ侍るが、あまりよからず、打ち捨てし』となり」とある。
 つまり、著者の土芳(どほう)が、この句について、師の芭蕉に手紙で尋ねたところ、芭蕉は、「その頃は、悪くはないと思っていたが、今は、あまりいいとは思わないので捨ててしまった」というのだ。年代は、『蕉翁句集』に元禄七年とある。

 季語は「薺」で春(新年)。「薺」は正月七日、七草粥(がゆ)に用いる七草の一つで、特に薺を若菜ということもある。

    「薺が青みはじめてきた。他の野菜の類(たぐい)ならば、一年その折々に
     摘まれるが、この薺は一年に一度、七草粥のときだけ摘まれるという、あ
     われ深い趣の草である」


      北風の墓場の横をボランティア     季 己

初雪

2010年01月12日 23時18分47秒 | Weblog
          旅行
        初雪や聖小僧の笈の色     芭 蕉

 聖小僧の上に、勧進・修行の月日の久しさを見て取って一句をなしているのである。そこには当然、『おくの細道』の旅をふりかえる気持も働いていたであろう。
 把握の中心は「笈(おい)の色」であって、それは長旅に褪せた色として解さなければならない。初雪の新鮮さが、そこに働いているのである。対象をそのまま投げ出したごとき表現に、一種の力が感じられる句である。
 『蕉翁句集』に元禄三年(1690)とあるが、それ以前の作と考えられる。

 「旅行」という前書きは、聖小僧のそれだけではなく、自分の旅中の寓目(ぐうもく)をも含めていると思う。
 「聖小僧(ひじりこぞう)」は高野聖(こうやひじり)とか、聖坊主(ひじりぼうず)とかいい、諸国勧進(かんじん)の修行僧のことで、笈を背にして行脚(あんぎゃ)をつづける。後には、乞食僧(こじきそう)が、その装いをして街道筋を旅行し、銭を乞い、食を求めなどした。

 季語は「初雪」で冬。「初雪の「初」の持つ新しさが、聖小僧の笈の色に働きかけているのである。

    「旅を続けていると、初雪がちらつきはじめた。折しも聖小僧が笈を負うて来る
     のに出会ったが、初雪が降りかかると、その笈の色もいっそう色あせて見え、
     いかにも長くつづいた旅のわびしさが身に沁みることだ」


 正午過ぎ、東京に初雪が降ったという。そのころ変人は、銀座の『画廊宮坂』で至福のひとときを味わっていたので、まったく知らない。
 『画廊宮坂』の宮坂祐次さんのご厚意で、今日から「虫干し展」をさせていただいている。“好き”で購入した作品が、20数年の間にたまってしまい、“我楽多”の山となってしまった。
 「絵は人に観られることにより成長する」ということは承知していたが、根が横着なもので、ほとんどが2階の部屋に積みっぱなしになっていたのだ。
 そんな不幸な作品に、日の目いや人の眼を見せたい、という思いやりのある有難い申し出を宮坂さんから受けたのだ。自分を恥じるとともに、涙が出るほど嬉しかった。何の得にもならない「虫干し展」、どこの画廊がやってくれるだろうか。大コレクターならいざ知らず、一介の貧乏人が集めた作品を。
 これらの作品から20点選び、展示させていただき、残りは床に箱入りのまま立てかけ、自由に見ていただくようにしている。
 一日中、一つの画廊に居るのは初体験。自分のコレクションを一度に20点も観られるのも、これが最初でおそらく最後であろう。生涯最高の思い出となる貴重な経験をさせていただき、『画廊宮坂』さんには感謝の気持ちでいっぱいである。
 他で購入した作品もあるが、多くは宮坂さんから購入したものなので、作品の質は佳いと自信をもって言える。それが証拠に、変人はその中で至福の一日を過ごしたのだから。
 初雪の降ったお寒い中、ご来場いただいた方々にも深く感謝します。
 明日(13日)は、日本語ボランティアのため、会場には行けませんが、木・金・土は一日中、会場におります。
 銀座方面におついでがありましたら、ぜひお立ち寄り下さい。そうして、絵を育ててあげてください。

    主な展示作家:小嶋悠司・滝沢具幸・武田州左・花岡哲象・藤田時彦・
           荘司 福・倉島重友・森山知己・川畑宜士・喜田直哉・
           清沢孝之・鴈野佳世子・木原和敏・菅原智子・智内兄助
    その他の作家:菊地武彦・間島秀徳・北 浩二・永武哲弥・清原明生・
           佐々木裕久・秋山俊也・ジーノトラメ……
                            (順不同、敬称略)
                    

      本金の古りし額縁 雪降れり     季 己

むかしに帰る

2010年01月11日 19時56分06秒 | Weblog
        雪おれやむかしに帰る笠の骨     松 意

 「雪おれ」は、正しくは「雪をれ(折)」。降り積もった雪の重さで、木や竹などが折れること。冬の季語である。
 「むかし」は、笠の骨になっている竹が、まだ竹藪に生えていたころを指す。

    「雪が降る中、笠をかぶってゆくと、笠に雪が積もってくる。それは、昔
     まだ竹藪に生えていたころ、雪折れ竹であったときの雪と竹との関係に
     戻るのである」

 竹といわずに竹を思いつかせるところが、作者の得意とするところである。このように句の表面にあらわに示さず、謎めいた余意でそれと暗示させる句作りの手法は、「ぬけ」・「ぬき」などといわれる。
 「ぬけ」は、和歌や漢詩でも謎の一体として行なわれたもので、俳諧では、貞門は嫌ってさけたが、談林は盛んに用いた。
 松意は、自身の俳諧書『夢助(ゆめすけ)』の中で、付句のぬき体を力説するが、発句のそれには否定的な見解を示している。なお、「ぬけ」には、心のぬけと詞のぬけとがあるが、この句の場合は後者のケース。松意の名を高からしめた『談林十百韻(だんりんとっぴゃくいん)』巻十の百韻の発句である。


      盛塩を置いて寒暮の小あきなひ     季 己

戒香薫修

2010年01月10日 23時03分06秒 | Weblog
 「戒香薫修」は、「かいこうくんじゅう」と読む。
 仏教でいう「戒」は、他から命じられて守るという他律的な教えではなく、自分で自分の行為を規制する自立的な道である。この点は、カント哲学の倫理思想に似ている。
 仏教思想とカント哲学の違いは、自立を自分の意志とせずに、“ほとけ”の誓いをわが願いとする点である。そこに実践と訓練が求められる。つまり修行が必要となる。修行は、“ほとけ”の誓いにもとづくから「奉行(ぶぎょう)」という。
 奉行といっても、上からの命令を奉じて事を行なう意味ではない。自分の修行を“ほとけ”に奉ることをいう。自分のためにするのではない。
 テレビでおなじみの「お奉行さん」も仏教用語で、本来の奉行の意味は、上記のように、自分の修行(判断)を“ほとけ”に奉る人ということなのだ。

 長年、ソロバン塾や学習塾で子供たちを指導してきたが、「一人を教えるときは、百人に教えるように、百人を教えるときは、一人に教えるように」を実践し、自分自身の生き方を規制してきた。
 ソロバン塾や学習塾は、“水もの”といわれる興行と同じで、ときには、いや、しょっちゅう生徒の少ない日がある。こんなときは、気が乗らぬままに授業をなおざりにするのを、戒めてきた。
 「人間の生徒さんに授業をするから、生徒の人数が苦になるのだ。自分は、“ほとけ”さまに自分の授業を奉るために教壇に立つのだから、生徒の入りや不入りは少しも気にすまい」と。「自分の授業を“ほとけ”さまに献納する」のが、自分の修行であり奉行だと思う。

 「戒香薫修」は、『観無量寿経』に見える。「戒律を保つと、その功徳がしぜんに身にそなわり、やがては広く人々に伝わって、徳高き人と尊敬されよう」という意味で、このことを、芳香が四方に薫るにたとえていう。
 しかし、おなじ香りでも花の香は風に妨げられるが、戒の香りを妨げるものがない事実を、『法句経』(五十四番)は、つぎのようにうたう。
    華の香は 風にさからいては行かず されど善人の香は
    風にさからって薫る 善き人の徳はあまねく薫る


      うつくしき日本語と会ふ成人式     季 己

続・抗癌剤療法

2010年01月09日 20時51分45秒 | Weblog
 点滴の時間を有意義に使おうと、アイポッドと文庫本を持参した。しかし、日頃の睡眠不足のせいか、うとうと状態。ときどき自分のいびきで目を覚ますことも。
 光輝高齢者の女性は、向かいのベッド、右隣のベッドは30歳前後の女性、左隣は50代と思しき男性。ただしベッドの両サイドは、カーテンで仕切られているので、看護師さんとのやりとりの声でしか判断できない。
 左隣の男性は、どうやら変人と同病で、変人とは違う「SOX+ベバシズマブ療法」を受けているようだ。
 これは、ベバシズマブ(7.5mg/kg)を1回目は90分、安全性が確認できた場合2回目は60分、3回目以降は30分かけて点滴した後、オキサリプラチン(130mg/㎡)を2時間かけて点滴する。これで点滴は終了。あとは院内の薬局で、ティーエスワンという内服薬を受け取り帰宅できる。もちろん、こちらは“小型爆弾”は無しである。
 ティーエスワン(40~60mg/回)は、1日目の夕方から15日目朝まで、1日2回(朝・夕)食後に内服する。15日目の夕方から22日目の朝までの7日間は、抗癌剤のないお休み期間となる。これを1コースとして治療を繰り返す。

 このSOX療法は、3週間に1度の通院、FOLFOX療法は2週間に1度の通院というところが、大きな違いといえる。また、抗癌剤投与がない期間は、7日と11日という違いがある。さらに、内服薬を1日2回、2週間飲み続けるか、“小型爆弾”を2日(延べ3日)間抱えるかの違いもある。

 左隣の男性は、食欲が無く、無理に食べても甘みを感じることが出来ず、少しもうまくないという。また、日に日に気力が失せて仕事に差し支えが起きそうだとも言う。これは明らかに、抗癌剤の副作用といえる。
 治験のKさんの話によると、抗癌剤の副作用は、人それぞれで何とも言えないとのこと。変人の場合、末梢神経障害による手足のしびれだけで、食欲は以前と変わらず、光輝高齢の女性同様「おいしく食べられるので、まだまだ生きられそう」である。
 この日の医療費の合計金額は、3割負担で、81,200円。


      我楽多やいつとはなしに松過ぎし     季 己

抗癌剤療法

2010年01月08日 22時50分54秒 | Weblog
 「ぼけてはいますが、おいしく食べられるので、まだまだ生きられそうです」
 そんな光輝高齢者の女性の声で、目が覚めた。そうだ、京都ではなく、ここは都立駒込病院外来治療室のベッドの上なのだ……

 近所のバス停から9時12分発の都バスに乗り、駒込病院に着いたのは9時40分頃。受付をすまし、中央採血室へ。待っている採血者はおよそ40人。待つ間に採尿室へ行き、先に採尿を済ます。
 やっと順番が来る。アルコール過敏症である旨を申し出、違う消毒をして採血を三本。採血部分を5分間しっかりおさえて、外科外来に診察券などを提出。
 10時35分頃、治験のKさんに呼ばれ、血圧・体温・体重を報告。Kさんからこの二週間の体調を聞かれ、それにこたえる。また、こちらからの質問には丁寧にこたえてくれる。
 これが済むと間もなく主治医のY先生からの呼び出し。Kさんからの報告と、採血・採尿の結果の出ているパソコン画面を見ながら、問診。体調が良いということで、4回目の抗癌剤投与をすることに決定。
 診察室を出て廊下の時計を見上げたら、11時2分前だった。

 これからが長かった。なにせ患者の数が異様に多いのだ。看護師さんに尋ねたら、昨日がパニック状態に近い多さで、今日はそれに次ぐ多さだという。
 13時35分頃に呼ばれ、ベッドに横になる。外科外来の先生が来られ、いよいよ天敵ならぬ、点滴投与が始まる。
 変人の受けている治療法は、「FOLFOX+ベバシズマブ療法」と言うそうだ。4回目の今日は、つぎのとおり。
 まず、ベバシズマブ(5.0㎎/kg)を30分かけて点滴した後、オキサリプラチン(85mg/㎡)とロイコボリン(200mg/㎡)を2時間かけて点滴する。
 オキサリプラチンとロイコボリンの点滴終了後に、医師が来て5-FUを注射(
400mg/㎡)。つづいて5-FU(2400mg/㎡)を約46時間で持続点滴する。
 この5-FUの持続点滴が始まったのが16時40分。この小型爆弾ほどの点滴を身につけたまま帰宅し、明後日の夕方以降に自分で針を抜き固い安全な容器に入れて保管し、つぎの外来の際に処分してもらうことになる。
 以上、病院から渡された資料を参考に書いたが、実際は少々違う。変人の場合、一回目の抗癌剤投与の際、食べ物の臭いがするだけで気分が悪くなり、食欲がまったく失せてしまった。主治医にその旨うったえると、二回目からは、通常の点滴の前に吐き気予防の点滴、ついで生理食塩水の点滴をしてくれ、吐き気予防の錠剤を四日分処方してくれた。そのおかげで食欲は、抗癌剤投与の前に戻り、「おいしく食べられる」ようになった。
 当然、今日もそのようにしてくれた。(つづく)


      室の花カルテはすべてパソコンに     季 己

あられ

2010年01月07日 20時51分57秒 | Weblog
        呼びかへす鮒売見えぬあられかな     凡 兆

 これは庶民の日常生活の一コマを、愛情を持って描いている。呼び返しても姿が見えない点に、新しい詩情を見出したのであろう。
 このよう生活の一瞬を、動的にしかも自然との交錯の中でとらえるのは、『猿蓑』期の凡兆の特色で、確かな俳意が認められる。当時の芭蕉の新しい考え方である「軽み」的な句である。
 季語は「あられ」で冬。

    「鮒売りが、威勢よく名をふれながら通り過ぎた。大声で呼びとめたが、足が速く、
     鮒売りの姿はもう見えない。外はあられが、鮒売りを追い立てるかのように、
     パラパラと降りしきっている」


 「霰(あられ)たばしる那須の篠原」というが、霰はまさに“たばしる”という感である。暗い雲のこめた夕べにふさわしく、冴えた音を板びさしに聞くのもなつかしい。けれどもすぐに止んで、あとは雪になるケースが多い。
 ここのところ、東京は晴天つづき。雪国の方々には、何か申し訳ない気がする。 
 正月、門松の飾られている間を「松の内」という。東京は「松七日」で、きょう松飾りを取り去った。これが「松納め」で、その直後を「松明け」・「松過ぎ」という。
 今朝は当然、七草粥(ななくさがゆ)。
 正月七日、七種の草を粥にたいて食べると、一年間病気にかからぬといい、昔は七草を、まな板の上で未明から包丁やすりこぎで叩いたという。
 昨年も正月七日、七草粥を食べたが大腸ガンになってしまった。けれども、それ以外は風邪一つひかなかったので、良しとしよう。
 午後から、「外国人のための日本語教室」での日本語ボランティア。これが今年の仕事始め。
 今年も頑張らずに、「戒香薫修(かいこうくんじゅう)」の精神で……。


      七草の草がいざなふ旅ごころ     季 己

子の日

2010年01月06日 20時45分37秒 | Weblog
        子の日しに都へ行かん友もがな     芭 蕉

 久しぶりで故郷の春を満喫した芭蕉。郷里の田舎びた春の中にあって、都の子の日の遊びにあこがれそめた心のあらわれが、この句となったもの。ゆったりしたくつろぎが、声調の上にただよっている。
 貞享二年(1685)春、故郷伊賀での作。年が改まると、『野ざらし紀行』の作品は、緊張からゆとりへがらりと一変する感じがある。

 「子の日」は、いまは「ねのひ」と清音で読んでいるが、当時は「ねのび」と濁音で読んでいたらしい(『節用集』)。
 「子の日」というのは、正月初の子の日に、野に出て小松を引く遊びのことで、宇多天皇の御代(在位887~897)に、天皇が北野雲林院に行幸し、子の日の宴を行なったことに始まるという。王朝的な優雅な遊びである。
 「友もがな」は、願望をあらわし、友がいればいいなあ、の意。

 「子の日」が季語で春(新年)。

    「子の日の遊びをしに都へ行きたいが、その風雅の旅を共にする友があると
     よいのだが」

 
 今年は平城遷都1300年。奈良では今年、さまざまな行事が待ちかまえていることだろう。そんな奈良で、宮中行事にあやかり、霞のなびく野に出て小松を採り、千代を祝ってみたいものである。この子の日の当日のみ、、小松を「子の日草」・「姫子松」と呼ぶ。
 古典を重視している『歳時記』には、こうした宮中行事の季語が非常に多い。当時のムードを想像して、この種の季題にアタックしたら面白いとは思うのだが……
 
 午後から出かけるのが常であるのだが、朝のゴミ出しを除いては、本日は一歩も外へ出ていない。
 わが家の二階は、今はやりの?ゴミ屋敷状態。八畳の部屋は、かろうじて蒲団二枚敷けるぐらいの空間がある。もう一つの十二畳の元書斎は、足の踏み場もないくらいガラクタが散乱している。このガラクタを妹は、“お宝の山”というが、自分では“我楽多”もしくは“娯美”と思っている。
 これらは、27年ほどかけて集めてきた、いや集まってしまった絵画・版画・書・彫刻・陶磁器・テディベアなのである。もっとも、絵画と版画のほとんどは、今は『画廊宮坂』にでかけているのだが。
 実は、『画廊宮坂』の宮坂祐次さんのご厚意で、1月12日(火)から16日(土)まで、「虫干し展」をすることとなったのだ。
 絵のシミや虫食いなどがないか、65点の作品を点検その他をしてくださり、そのうち十数点を展示し、残りは会場に立てかけておくことになった。自分の所蔵品でありながら、十数点を一度に観るのは、もちろん初めてである。
 貧乏人が好きで購入したものなので、いわゆる名品は一点もない。すべて“我楽多”であり、“娯美”である。
 その“娯美”の中から、非常に愛着のある小嶋悠司先生の「人間」と、滝沢具幸先生の「アラベスクな林」を見つけ出すために家探しをしたのだ。
 しかし、“娯美”の中からは見つからず、押入の上の天袋に大切に保管されていた。東田茂正先生の陶器とともに。できたら会場に展示したいと思うのだが……


      小松引く憶良が好きで旅好きで     季 己

雪ころばし

2010年01月05日 22時48分49秒 | Weblog
          武州江戸にて        
        むさしのの雪ころばしかふじの山     徳 元

 「雪ころばし」は雪だるまであるが、目鼻をつけるわけではなく、ただ雪の玉を転がして丸く大きくしただけのものである。
 この句は、徳元の『関東下向道記』に下五「富士の嶽」とあり、徳元が初めて京から江戸に下った時の句だという。
 武蔵野は、広大さを賞するのがきまりであり、この句の場合もそのきまりに即している。ただ富士山を、武蔵野の雪だるまと見立てたところが、いかにも面白い。
 見立ては、貞門の基本的な手法の一つであるが、この句など、その例句としてピッタリのものであるといえよう。

 作者の徳元は斎藤氏。永禄二年(1599)生まれ。美濃(今の岐阜県南部)の人。
 岐阜中納言織田秀信に仕えたが、関ヶ原の合戦で浪人、のち越前若狭の京極家に仕えた。一時、京都に住んで、里村昌琢に連歌を学び、貞徳とも関係をもった。
 晩年は江戸に住み、江戸俳壇の長老と仰がれた。寛永十八年(1641)、『俳諧初学抄』を刊行したが、これは江戸で刊行された最初の俳書である。正保四年(1647)没。
 季語は、「雪ころばし」で冬。

    「雪でおおわれたあの富士山は、この武蔵野の雪で作った雪だるまであろうか」


 二日の「箱根駅伝」のテレビ中継では、それはみごとな富士山を拝めたが……。 きょう、日暮里の富士見坂に行ったときには、黒雲しか見えなかった。
 日本橋・高島屋で「日韓現代美術展」を観る。独立展へ出品している若手の作品を凝視していると、美術担当のHさんが横にやって来た。
 新年の挨拶を交わした後、しばらく閑談。帰り際、明日からの「ながくて会」日本画展の図録と、「北大路魯山人展」の招待券をいただく。「北大路魯山人展」は開催中なので、そのまま8階の会場へ行き、しばし眼福のひとときにひたる。
 日本橋を渡り三越へ。日本の職人「匠の技」展を、ほっつき歩く。顔見知りの職人さんたちと、つい話し込んでしまう。営業妨害にならぬよう、気を遣っているつもりなのだが。

      盆梅の輪廻はじまる冬芽かな     季 己

とらの年

2010年01月04日 22時59分01秒 | Weblog
        四日はや身を荒使ふ医にもどる     下村ひろし

 官公庁や銀行など、きょう四日から仕事始め(官公庁は御用始め)。多くの会社や医院なども、この日から一年の仕事が始まる。また、僧侶などの回礼も、この日からおこなわれる昔からのしきたりがある。

 サンデー毎日の身には、仕事始めはない。あえて言えば、七日からの「外国人のための日本語教室」が、仕事始め。
 今日はまったく予定がないので、午後から散歩?
 都バス、地下鉄などを乗り継いで、上野・御徒町(おかちまち)・新宿・浅草を歩いてみたが、とりたててコレというものはなかった。ただ、不景気ということだけは、ひしひしと感じられた。

        霞さへまだらにたつやとらの年     貞 徳

 霞は雅語として、すでに和歌の世界で一般化され、俳諧においてもよく扱われた題材であるが、この句ほどおおらかに詠まれたものは少なかろう。
 無心な子どもが、ふと口をついて出たようなおさなさが感じられる。だが、それは室町期宗鑑の「にがにがしいつまであらしふきのたう」の句にも通じるものであり、同じ貞徳の
        しほるるは何かあんずの花の色
 とも等しい境地であろう。
 寅年から霞がまだらに立つなど、言語遊戯にすぎぬと一笑するのは、近代人の感覚で、この句は初期貞門俳諧のおおらかな句ぶりを、よくあらわしているといってよい。

 「まだら」と「とら」は縁語。
 「たつ」は、“霞が立つ”と“年が立つ”と言い掛けている。「アルミ缶の上にあるミカン」のようなダジャレとは違う。
 季語は「霞」で春。寛永三年(1626)寅年新春の作。

    「寅の年の新年は、霞さえ、虎の紋のようにまだらに立つことだ」


      巣鴨行きバスとろとろと四日かな     季 己

三日

2010年01月03日 20時34分50秒 | Weblog
 まだ寝ているのだろうか。近所の雨戸を繰る音が、まったく聞こえてこない。
 「8時を過ぎたので、もうよかろう」と雨戸を開けたら、案の定、わが家が一番。視界の範囲は、みな雨戸が閉まっている。
 テレビで「箱根駅伝」を見る。
 いつもなら、昼過ぎに日本橋まで応援に行くのだが、今日は、もう一度、年賀状を書くことにする。
 三が日は、休みの店が多く、今日やっと開いている店を見つけ、年賀はがきを買うことができた。
 同じ失敗をしたくないので、プリンターをだましだまし、一枚ずつ確認しながら印刷する。つぎに、篆刻家、中山正男先生の「千手観音」印を、祈りをこめながら捺印。こうして、宛名を書き、ポストに投函したら5時半をまわっていた。

        白少し透きし三日の鏡餅     森 澄雄
        山中の鯉に麩をやる三ヶ日     森 澄雄

 「三日(みっか)」は、三が日の終わりの日、つまり、一月三日。元旦から朝ごとの雑煮(ぞうに)や屠蘇(とそ)も、一応、この日で納めとなる。
 「三ヶ日(さんがにち)」は、一月の一日、二日、三日の総称。この三日間は正月気分で、官庁や会社なども一般には休みとなる。
 二日は、仕事始めの吉日とされ、商店では初荷を迎え、家庭では書き初めなどをして祝ったものである。


      湯を注ぐチキンラーメン三日かな     季 己 

虎渓三笑

2010年01月02日 16時26分54秒 | Weblog
 今年は、平成庚寅(かのえとら)年である。そこで、寅年にこと寄せて……

 中国江西省九江の南、廬山に、虎渓(こけい)という人の恐れる渓谷がある。
 晋の高僧・慧遠(えおん)は、廬山の東林寺に隠居して、虎渓を渡るまいと誓った。
 ある日のこと。その慧遠のもとに、陶淵明と陸修静の二人の詩人が訪れ、夜の更けるまで談笑に時を過ごした。「これ以上いては相済まぬこと」と、別れを告げた。
 すると慧遠は、「それでは、ちょっとそこまで」と、両人を送るため家を出た。しかし、なおも尽きせぬ談笑のうちに、いつしか人の恐れる“虎渓”を過ぎていた。
 三人が気づいた時はすでに遅く、引き返すことも出来なかった。けれども、何ごともなかったので、三人ともに大笑したという。
 おそらく、虎にも風流心があったのであろう。清談の面白さになすこともなく、聞きほれていたのかも知れない。
 これが、世に言うところの「虎渓三笑(こけいさんしょう)」の故事である。


      笑ひすぎても減ることはなし福袋     季 己