壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

すこし

2010年01月30日 21時37分34秒 | Weblog
        菎蒻の刺身もすこし梅の花     芭 蕉

 『蕉翁句集』によれば、去来の身寄りあるいは、去来と共通の知人の追福の意が、発想の契機と思われる。
 菎蒻(こんにゃく)の刺身も少し霊前に供えて、故人の追憶にひとりふけっている侘びしい姿を自ら眺めているおもむきである。余寒の庭前に咲き出し、かすかに匂うている梅の冷たさが、この心に一脈の明るさとさびしさとを通わせて、かすかな心のゆらぎを誘うのである。

 「菎蒻の刺身」は、仏前に供える精進料理の一つであるとも、伊賀の料理で、菎蒻を薄く切り、湯がいて酢味噌で食べるものともいう。
 「すこし」は、出典書すべてが仮名で表記しているので、「少し」とも、「凄(すご)し」とも両様に解せる。文語の「凄し」は、口語の「すごい」にあたり、
  ①恐ろしい。気味が悪い。すさまじい。
  ②ぞっとするほど物寂しい。
  ③恐ろしいほどすぐれている。すばらしい。
  ④程度がはなはだしい。ひどい。
 などという意味になる。
 『蒙引』は「凄し」と解し、『句解参考』にも、「亡き人の事をいふめれば、凄しといふ義理に必定せり」と述べている。また芭蕉は、この句より以前に、李下(りか)の妻を悼んで、「かづき伏す蒲団や寒き夜やすごき」とも詠んでおり、この説もむげには否定できない。しかし、ここでは素直に「少し」と見ておく。

 季語は「梅の花」で春。菎蒻の刺身というものの感じと対比して、「梅の花」がひときわ鮮やかな印象をとどめる。

    「亡き人の忌日とて、菎蒻の刺身も少し添えて斎膳(ときぜん)を供えた。庭前には、余寒の
     中に梅の花が咲き出て、故人を偲(しの)ぶ心にふさわしい」


      寒桜あたりありあり淡きかな     季 己