秋の色というのは、どのような色のことを言うのだろうか。
『新古今集』その他に用例を見ることが出来るが、もと、秋の草木の紅葉を意味したもののようである。歳時記では、『増補花火草』(延宝六年=1678)に初めて見える。
「秋の色」は、秋に入って自然がすべて清澄なる色を帯びること、いわゆる秋色。今日では、抽象的な秋の気配、秋の気分のように詠まれているようだ。
秋の色糠味噌壺もなかりけり 芭 蕉
元禄四年(1691)秋、義仲寺草庵において、句空に頼まれ、兼好像の画賛として与えたものである。
兼好の境地への共感が発想を支えており、それが「秋の色」という季感と滲透しあって一句を成している。句空に対する挨拶の心も一筋生き、それがまた芭蕉の心境にも通じていることになろう。
『草庵集』(元禄十三年自序・句空編)の句空の序には、「秋の色ぬかみそつぼもなかりけり、といふ句は、兼好の賛とて書きたまへるを、常は庵の壁に掛けて対面の心地し侍り。先年、義仲寺にて翁の枕もとに臥したるある夜、うちふけて我を起さる。何事にか、と答へたれば、あれ聞きたまへ、きりぎりすの鳴き弱りたる、と。かかる事まで思ひ出だして、しきりに涙のこぼれ侍り」とある。
元禄四年秋、句空宛芭蕉真蹟書簡には、「像賛の儀、発句珍しからず、難儀仕り候。か様の事にて書き付け申す可くや」とあって、「秋の色」・「しづかさや」の順で並記している。「秋の色」の右肩に、「庵の秋ヵ」細書きし、初五に関して別案のあったことを示しているが、結局は、「秋の色」に決定したものである。
「句空」は金沢の俳人。中年にして退隠剃髪した。元禄二年『おくのほそ道』旅中の芭蕉に入門。前記の他に『北の山』・『干網集』などの編がある。
「兼好」は吉田兼好で、『徒然草』の著者。
「糠味噌壺もなかりけり」は、『徒然草』の「尊きひじりの云ひ置きける事を書き付けて、『一言芳談』とかや名づけたる草子を見侍りしに、心にあひて覚えし事ども……一、後世を思はん者は、じんだ瓶一つも持つまじきことなり。……」を心に置いた発想。「じんだ瓶」は糠味噌瓶のこと。なお、「後世を思はん……」は俊乗坊の語である。
「秋の色」が季語。この句では、澄明・清爽の気を強く意識した新しい感覚のつかみ方が見られる。
「天地ものみな清澄な秋気がみなぎっている。兼好法師は感銘を受けたも
のとして、『じんだ瓶一つも持つまじきことなり』ということばを書き留めて
いるが、そのことば通り、糠味噌壺一つ持たないこの秋色のようなすが
すがしい生涯を貫かれたことだった」
腕欠けし男神像や秋のいろ 季 己
『新古今集』その他に用例を見ることが出来るが、もと、秋の草木の紅葉を意味したもののようである。歳時記では、『増補花火草』(延宝六年=1678)に初めて見える。
「秋の色」は、秋に入って自然がすべて清澄なる色を帯びること、いわゆる秋色。今日では、抽象的な秋の気配、秋の気分のように詠まれているようだ。
秋の色糠味噌壺もなかりけり 芭 蕉
元禄四年(1691)秋、義仲寺草庵において、句空に頼まれ、兼好像の画賛として与えたものである。
兼好の境地への共感が発想を支えており、それが「秋の色」という季感と滲透しあって一句を成している。句空に対する挨拶の心も一筋生き、それがまた芭蕉の心境にも通じていることになろう。
『草庵集』(元禄十三年自序・句空編)の句空の序には、「秋の色ぬかみそつぼもなかりけり、といふ句は、兼好の賛とて書きたまへるを、常は庵の壁に掛けて対面の心地し侍り。先年、義仲寺にて翁の枕もとに臥したるある夜、うちふけて我を起さる。何事にか、と答へたれば、あれ聞きたまへ、きりぎりすの鳴き弱りたる、と。かかる事まで思ひ出だして、しきりに涙のこぼれ侍り」とある。
元禄四年秋、句空宛芭蕉真蹟書簡には、「像賛の儀、発句珍しからず、難儀仕り候。か様の事にて書き付け申す可くや」とあって、「秋の色」・「しづかさや」の順で並記している。「秋の色」の右肩に、「庵の秋ヵ」細書きし、初五に関して別案のあったことを示しているが、結局は、「秋の色」に決定したものである。
「句空」は金沢の俳人。中年にして退隠剃髪した。元禄二年『おくのほそ道』旅中の芭蕉に入門。前記の他に『北の山』・『干網集』などの編がある。
「兼好」は吉田兼好で、『徒然草』の著者。
「糠味噌壺もなかりけり」は、『徒然草』の「尊きひじりの云ひ置きける事を書き付けて、『一言芳談』とかや名づけたる草子を見侍りしに、心にあひて覚えし事ども……一、後世を思はん者は、じんだ瓶一つも持つまじきことなり。……」を心に置いた発想。「じんだ瓶」は糠味噌瓶のこと。なお、「後世を思はん……」は俊乗坊の語である。
「秋の色」が季語。この句では、澄明・清爽の気を強く意識した新しい感覚のつかみ方が見られる。
「天地ものみな清澄な秋気がみなぎっている。兼好法師は感銘を受けたも
のとして、『じんだ瓶一つも持つまじきことなり』ということばを書き留めて
いるが、そのことば通り、糠味噌壺一つ持たないこの秋色のようなすが
すがしい生涯を貫かれたことだった」
腕欠けし男神像や秋のいろ 季 己