壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

“わび”・“つや”

2009年09月07日 15時26分51秒 | Weblog
 九月七日は「英治忌」。
 作家、吉川英治は、1962年9月7日 肺ガンのため築地国立がんセンターで死去した。70歳であった。
 1944年3月、吉川英治は家族とともに東京・赤坂から東京・青梅へ疎開し、1953年8月まで生活していた。彼はその居を「草思堂」と名付け、こよなく愛した。
 1950年から朝日新聞に連載された『新・平家物語』は、この「草思堂」で執筆された。
 吉川英治のことばとして「我以外皆我師」が有名であるが、「魚に河は見えない」ということばも変人は好きである。
 
      山居秋冥(さんきょしゅうめい)    王 維(おうい)
   空山新雨後    空山新雨の後
   天気晩来秋    天気晩来秋なり
   名月松間照    名月松間に照り
   清泉石上流    清泉石上に流る
   竹喧帰浣女    竹喧(さわが)しくて浣女(かんじょ)帰り
   蓮動下漁舟    蓮動いて漁舟下る
   随意春芳缼    随意なり春芳(しゅんぽう)のやむこと
   王孫自可留    王孫(おうそん)自ら留(とど)まる可(べ)し

    秋の閑かな物寂しい山に、サアーッと雨が降り、そして上がったばかり。
    雨上がりの後、澄んだ気配は夕暮れにいよいよ清らかに、秋らしくなる。
    松の葉越しに照る月の光、
    石の上をサラサラ流れる清らかな泉の流れ。
    竹林の向こうに何やら賑やかに話し声が聞こえて、浣女が帰って行き、
    入江の蓮が動いて、漁舟が川を下ってゆく。
    春の花は勝手に散ってしまうがよい、この山居の様はかくのごとくすばらしいから。
    王孫は春の草花が枯れ尽きようと、そんなことにはかまわずここに留まるだろう。

 王維は宮仕えの傍ら、都の郊外の網川荘(もうせんそう)で隠逸の生活を楽しみ、隠者の歌をうたった。この五言律詩はその一つで、網川荘での秋の夕暮れの情景を描いたもの。“わび”のなかに“つや”を織り込んだ王維独自の世界となっている。
 この詩の見どころの一つは、まず最初の句にある。雨上がりの山荘の実景を描写した句であるが、空山と新雨の取り合わせが絶妙である。
 空山というのは、何もない山、秋の木の葉を落とした山、寂しい秋の静かな山、だれもいない山、といった抽象的な雰囲気を表す場合に使われるが、王維は、これらを踏まえつつ実際の場面に使っている。
 そしてそこに新雨を配した。自然の物に「新」の修飾語を付けるのは、当時としては目新しい用法である。
 「新」には、初々しい、さらな、鮮やかな、晴れやかな、などの語感がある。ここでの「新」は、……したばかり、の意であろう。
 空山の「空」と逆の方向の語感を持つ新雨を組み合わせることによって、すがれた山の奇妙な晴れやかさと、さびた世界の清澄さが浮き出ている。この清澄さの感覚は、第二句の天気の語で的確にとらえられ、この山荘の秋の気分が描き出される。天気は、澄み渡った気象、気配の意である。

 第三・第四の対句は、前の二句を承(う)けて、秋の清らかさを展開し、さらに美しさを加えて、この詩の舞台装置を整え、次の句を呼び起こす。
 第五・第六の対句は、浣女なり漁舟なりが見えないのがおもしろい。
 浣女は、川で洗濯する娘の意だが、ここでは、「浣紗女(かんしゃじょ)」すなわち、中国の代表的な美女「西施(せいし)」の連想があろう。
 漁舟は、漁父の乗る舟である。漁父は、隠者の友であるから、第三句で松が出てきたのと同様、隠者世界にふさわしい道具立てになる。
 浣女はどうか。実はこの語が、詩中最大のポイントを占める。
 これは、「洗濯女」などという語のただよわす無粋な感じとはまるで違う、なまめかしい語なのである。浣女とはこの場合、川で洗濯する娘を指すが、語のイメージとして「浣紗(=絹をさらす)」と関連し、さらには春秋時代の美女西施へと連想が進む。したがってここでは、美しくうら若い娘たちが、さざめきながら竹の向こうを通るということになる。
 これが山居の中の色彩であり、“わび”のなかの“つや”であって、この詩の核をなすものなのである。


      中年や縁切寺に鵙高音     季 己