壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

稲妻

2009年09月13日 20時55分46秒 | Weblog
 秋の夜、空一面に光が走り、うす桃やうす紫の妖しい色に染まる。稲を実らせるものとして「稲妻(いなづま)」「稲の殿(との)」と呼ばれる。
 「稲妻」は、「稲光(いなびかり)」とも呼ばれるが、雷雨に伴った電光のことではない。秋の夜空に見える閃光が稲妻なのである。

        みちのくにさらに奥ありいなびかり     器

 『改正月令博物荃』に、
    「光ありて雷鳴らざるをいふなり。稲光といふもおなじことなれども、
     稲光と唱へては雑なり」
 とある。こういう考えもあったようだが、今日では、稲光も秋の季語としている。

        稲妻や顔のところが薄の穂     芭 蕉

 この句には、
    「本間主馬が宅に、骸骨どもの笛・鼓をかまへて能するところを
     ゑがきて、舞台の壁にかけたり。まことに、生前のたはぶれ、
     などかこの遊びに異ならんや。かの髑髏を枕として、つひに夢
     現をわかたざるも、ただこの生前を示さるるものなり」
 という、長い前書きがついている。
 「本間主馬(しゅめ)」は、俳号「丹野」という、大津在住の能役者である。

 丹野亭の能舞台にかけられた、骸骨が能を演ずる絵に賛するこころで発想したものであろう。
 前書きで明らかなように、『荘子』が思い寄せられ、句の表現では、小野小町の故事が踏まえられている。
 「稲妻や」は、人生の観想に一瞬、物の変ずる勢いを点じて、すこぶる妙機をつかんでいる。
 「顔のところが薄の穂」と投げ出した手法は、薄のそよぐさまを一瞬、青白い閃光のもとに浮き上がらせて、凄味がある。

 「生前のたはぶれ」は、はかない人生の営み。
 「髑髏(どくろ)を枕として」は、『荘子』至楽篇「髑髏を援(ひ)きて枕として臥す」による。
 「薄(すすき)の穂」は、小野小町の髑髏の眼の穴から薄が生え、和歌を詠んだという伝説に基づくものと思う。
 「薄(の穂)」も秋の季語であるが、中心は「稲妻」で秋季。季語の本質に迫った鋭いつかみ方である。

    「人間の生前の営みすべて、髑髏の舞と異なるところはない、と観ぜられ
     る折しも、稲妻が一閃してその瞬間、この座の人々も骸骨と化し、その
     顔のあたりに薄が生い出て穂が揺らいでいる幻影が、さっと過(よ)ぎ
     ったことだ」


      塞翁が馬のいななきいなびかり     季 己