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壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

凝集させる

2009年09月04日 15時55分30秒 | Weblog
        淋しさや釘にかけたるきりぎりす     芭 蕉

 『草庵集』の句空序の中に「函底に兼好の絵あり。是に故翁の句ふたつあり。義仲寺にての吟なり」とあって掲出する。「句ふたつ」とは、この句と昨日取り上げた「秋の色」とをさす。
 元禄四年秋、句空宛芭蕉真蹟書簡には、「秋の色」に続け、「しづかさやゑかゝる壁のきりぎりす」とあり、初案と思われる。
 初案の形だと、「あなたの庵では、この兼好の絵像の掛かっている壁に、こおろぎがとまって鳴き澄み、その声に庵のしずけさがいよいよ深まることであろう」ほどの意となろう。

 さて、兼好像の賛として詠んだ上掲の成稿は、かなり独白的な句境に落ちついてしまったと思われる。
 初案の「しづかさやゑかゝる壁のきりぎりす」は、兼好の絵像が掛けられる草庵の閑かさを思いやった発想になっている。それは、「秋の色糠味噌壺もなかりけり」が、『徒然草』の一節を引用したかたちで、じかに兼好を扱ったものであるのに対し、兼好画像をつつみこんでいる閑かな句空の生活の姿に目を注いだものであった。
 成稿のかたちは、兼好画像を意味する「絵」という特殊な素材をも消してしまい、「淋しさ」そのものに深まってゆく方向で、一句の独立性を持たせようとしている。
 「淋しさや」と、まず全体の雰囲気を打ち出し、それが「釘にかけたるきりぎりす」に凝集させられてゆく手法で、芭蕉自身の心境を強く表白した作品として性格を変えているのである。

 「釘にかけたる」は、釘に掛けてある籠の、という意であるが、「籠」を省略した発想がかえって生彩を放つ。
 「きりぎりす」は現在のコオロギのことで、これが季語で秋季。ほそぼそとした音色が中心であるが、その壁に掛けられた籠の中での孤独な姿を深く生かされた使い方である。

    「釘に掛けた籠の中で、こおろぎがほそぼそと鳴きつづけている。これを
     見ていると、淋しさが身に沁みてくるようだ」


      迫り来る闇やこほろぎ覚めてをり     季 己