壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

あきらめる

2009年09月12日 19時55分24秒 | Weblog
 今日のブログを書こうと、編集画面を開いて驚いた。
 当ブログへの、きのう一日の訪問者が78名、閲覧数が1194となっていたのだ。
 当初、1日の訪問者は1ケタであったが、おかげさまで最近は、70名前後の訪問があり、閲覧数は200ほどまでに増えた。それにしても、きのうの閲覧数1194は異常である。
 きのうまでに書いたタイトル総数は632。おそらく御奇特な方がおられ、これまでの分をほとんど全部、読んでくださったのではなかろうか。心から感謝申し上げたい。
 
        行到水窮処   行(ゆ)いては到る水の窮まる処
        坐看雲起時   坐して看(み)る雲の起こる時

 中国唐代の詩人、王維(おうい)の五言律詩「山に入りて城中の故人に寄す」の中の句である。
 王維は、詩人であるとともに画家でもあるから、その詩篇そのままが絵になるような作品が多い。上に揚げた五言の対句も、美しい雅趣が感じられる。
 山の中に入って、谷川に沿って奥へ奥へと進んで行き、ついに流れの源に行き着いた。そして、そこに坐りこんで、遙か向こうに立ちのぼる雲を眺める――。

 叙景詩で、詩句そのままが自然の景観だ。自然を友とする心境や、水や雲そのままの、執着のない無心の心情をうたいあげている、といわれている。
 しかし、自然の叙景をふまえつつ、人間の“こころ”を詠んでいるとともに、“さとり”の心境を述べている、との味わい方も可能であろう。

 「行いては到る水の窮まる処」に、目前の現象や、自分のいまの感情の起伏がどこから起きているか、その源泉を順に追究していくべき示唆を知る。
 「坐しては看る雲の起こる時」に、感情があとからあとから盛り上がる現象を凝視すべきを暗示している。
 いずれもの原点を究めるのを「あきらめる」という。「あきらめる」は、「明らめる」で、はっきりさせることである。
 とかく、「あきらめる」というと一般に、断念する意の「諦(あきら)める」にしているが、それは正しくない。
 「あきらめる」は、ま行下二段活用「あきらむ」の口語形で、事情などを明らかに見きわめたり、はっきりさせることである。それが、「行いては到る水の窮まる処」である。「あきらむ」とは、確認のことだ。実情を確認した上で、断念すべきなら断念するがいい。
 見究めずして断念するのは、「あきらめ」ではなく放棄である。

 「明らむ」の正しい意味は、「心を明るく楽しくする」ことだと思う。
 歩くも坐するも、ともに事情確認の方法の象徴である。また、「行到水窮処」に空間を、「坐看雲起時」に時間が意味されていることを学びたい。


      爽やかに注射針抜く医師若し     季 己