子 夜 呉 歌(しやごか) 李 白
長安一片月 長安一片(ちょうあんいっぺん)の月
萬戸𢭏衣声 万戸(ばんこ)衣を𢭏(う)つの声
秋風吹不盡 秋風吹いて尽きず
総是玉関情 総(す)べて是れ玉関(ぎょくかん)の情
何日平胡虜 何(いず)れの日にか胡虜(こりょ)を平らげて
良人罷遠征 良人(りょうじん)遠征を罷(や)めん
長安の空には満月が一つ冴え冴えと出ている。
その月光に照らされた町のあちらこちらの家々から、衣を打つ砧
の音が聞こえてくる。
秋風があとからあとから吹き止まない。
月や砧や秋風などすべてが、遠い西方の玉門関に出征している夫
を思う心をかきたてる。
いつになったら、夷(えびす)どもをやっつけて、
夫は、遠征をやめて帰ってくるのだろうか。
この詩は、天宝二年(743)、李白(りはく)四十三歳の秋の作というのが通説のようだ。
もともと「子夜歌」は、南方の民歌である。江南の明るい風土の中での、なまめかしい恋の歌、時にはそれが失恋の悲しみになることもあるが、甘美なムードがまつわる歌である。それを李白は、舞台を北方の都に移し、玉門関へ遠征する夫の留守をまもる女の歌に仕立てた。
時は秋の夜。皎々たる満月(視覚)、哀切にひびく砧(きぬた)の音(聴覚)、吹き止まぬ秋風(触覚)と、あくまで寂しい道具立てだが、その底に、もとの「子夜歌」の持つ、なまめいたような、やるせない感情がひそんでいる。
そのため息を表すのが、終わりの二句である。「いったい、いつになったら、あの憎い夷(えびす)どもをやっつけて帰ってらっしゃるの、早く帰ってね」と、纏綿(てんめん)たる情緒が、ここに流露する。
前の四句で意は尽きたり、として二句を蛇足とする説があるが、それは李白の意図を知らないものだと思う。
なお、日本の詩歌にも、砧をうたう同じ趣のものがある。いくつかあげてみる。
みよし野の山の秋風小夜ふけてふるさと寒く衣打つなり 藤原雅経
たがためにいかに打てばか唐衣ちたびやちたび声のうらむる 藤原基俊
声澄みて北斗にひびくきぬたかな 松尾芭蕉
砧打ちて我に聞かせよや坊が妻 松尾芭蕉
どたばたは婆の砧と知られけり 小林一茶
湖と池のちがひを秋の夜 季 己
長安一片月 長安一片(ちょうあんいっぺん)の月
萬戸𢭏衣声 万戸(ばんこ)衣を𢭏(う)つの声
秋風吹不盡 秋風吹いて尽きず
総是玉関情 総(す)べて是れ玉関(ぎょくかん)の情
何日平胡虜 何(いず)れの日にか胡虜(こりょ)を平らげて
良人罷遠征 良人(りょうじん)遠征を罷(や)めん
長安の空には満月が一つ冴え冴えと出ている。
その月光に照らされた町のあちらこちらの家々から、衣を打つ砧
の音が聞こえてくる。
秋風があとからあとから吹き止まない。
月や砧や秋風などすべてが、遠い西方の玉門関に出征している夫
を思う心をかきたてる。
いつになったら、夷(えびす)どもをやっつけて、
夫は、遠征をやめて帰ってくるのだろうか。
この詩は、天宝二年(743)、李白(りはく)四十三歳の秋の作というのが通説のようだ。
もともと「子夜歌」は、南方の民歌である。江南の明るい風土の中での、なまめかしい恋の歌、時にはそれが失恋の悲しみになることもあるが、甘美なムードがまつわる歌である。それを李白は、舞台を北方の都に移し、玉門関へ遠征する夫の留守をまもる女の歌に仕立てた。
時は秋の夜。皎々たる満月(視覚)、哀切にひびく砧(きぬた)の音(聴覚)、吹き止まぬ秋風(触覚)と、あくまで寂しい道具立てだが、その底に、もとの「子夜歌」の持つ、なまめいたような、やるせない感情がひそんでいる。
そのため息を表すのが、終わりの二句である。「いったい、いつになったら、あの憎い夷(えびす)どもをやっつけて帰ってらっしゃるの、早く帰ってね」と、纏綿(てんめん)たる情緒が、ここに流露する。
前の四句で意は尽きたり、として二句を蛇足とする説があるが、それは李白の意図を知らないものだと思う。
なお、日本の詩歌にも、砧をうたう同じ趣のものがある。いくつかあげてみる。
みよし野の山の秋風小夜ふけてふるさと寒く衣打つなり 藤原雅経
たがためにいかに打てばか唐衣ちたびやちたび声のうらむる 藤原基俊
声澄みて北斗にひびくきぬたかな 松尾芭蕉
砧打ちて我に聞かせよや坊が妻 松尾芭蕉
どたばたは婆の砧と知られけり 小林一茶
湖と池のちがひを秋の夜 季 己