壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

喜びになれ

2009年09月22日 20時55分09秒 | Weblog
 昼近く、知人のKさんから電話をいただいた。きのうのブログで紹介した、岸田稚魚先生の「死ねることの幸ひ銀河流れをり」の意味がわからない。どういう意味か教えろ、というのだ。
 例によって、「俳句に意味性はない。自分で好きなように感じればよい」というと、「そんなことをいわれても……、じゃあ、“死ねることの幸ひ”って、どういうことだ」ときた。しかたがないので、私見を述べたが。

 ――“死ねる”ということは、“生きている”ということである。死んでいたら、死ねないのだから。つまり、「死ねることの幸ひ」というのは、「いま生きていることが、幸せなことなのだ」ということだ。

     ああ、なんと神秘的な銀河なのだろう。
     この美しい銀河の流れが観られるのも、今、生きていればこそ。
     今は、今しかない。
     今は、帰ってこない。
     今を大切に生きよう!

 と、わたしは自分自身にも言い聞かせている。

 「十人十色」といわれるが、顔かたち同様に、心の“すがた”も同じではない。
心の“すがた”が違えば、考え方が違うのも当然だ。自分と考え方が違うからといって、怒るのは愚かである。
 手のかたちは違っても、手を握りあえば、あたたかい血の流れが感じあえるように、心の“すがた”は同じでなくても、静かに相手の話を聞いているうちに、通じあうものに気づくはずである。

 私たちは、みんな欠点を持っている平凡人の寄り集まりである。それであればこそ、お互いに助けあって幸せに生きなさい――これが仏の願いであり、この願いゆえに、私たちのような平凡人が生きてゆけるのである。
 話しあいが失敗するのは、自分が正しいと信じ込んで、聞きあおうという愛情がないからだ。よく聞きあえば、心の“すがた”は違っても、その底には、人間の持つ悲しさやはかなさがあることがわかるはずである。

        ぶどうに種子があるように 私の胸に悲しみがある
          青いぶどうが酒になるように
        私の胸の悲しみよ 喜びになれ    (高見 順)

 ぶどうに種子があるように、私たちに心がある。自分の言動に、恥ずかしい心の“すがた”を残すが、「青いぶどうが酒になるように」、他の人の声をよく聞き、話しあい、学びあってゆけば、必ず、楽しく幸せに生きてゆけると思う。


      種なしの葡萄ひとつぶ恋ごころ     季 己