壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

藤の実

2009年09月17日 20時51分12秒 | Weblog
          関の住、素牛何がし、大垣の旅店を訪はれ侍
          りしに、彼の「藤白御坂」といひけん花は、
          宗祇の昔に匂ひて、
        藤の実は俳諧にせん花の跡     芭 蕉

 (岐阜県)関の住人素牛(そぎゅう)に逢って、関のゆかりで宗祇(そうぎ)の句を契機として発想したものであろう。
 前書きは、
    「関に住む素牛某が、大垣の私の旅宿に訪ねて来られたが、聞けば、
     あの宗祇が、『関越えてここも藤白御坂かな』と詠まれた関の藤の
     花は今も昔ながらに咲き匂っているよしで」
 というほどの意である。

 素牛は、関の住人、広瀬氏の俳号で、後に惟然(いぜん)と号す。貞享五年(1688)夏、芭蕉に入門、親愛された。芭蕉没後、諸国を行脚し、晩年は関に弁慶庵を結んで住み、口語的発想の句風を示した。正徳元年、六十余歳で没。
 「藤白御坂……」は、宗祇の「関越えてここも藤しろみさか哉」にもとづいた表現。宗祇のこの句には、「美濃国関といふ所の山寺に藤の咲きたるを見て吟じ給ふや」と付記してある。
 万葉の歌枕、紀州の藤白坂(藤白峠、藤代峠とも)を詠んだ藤原為家の「ふぢしろの山の御坂を越えもあへず先づ目にかかる吹上の浜」(夫木和歌抄)によったもので、「美濃の国の関を越えてみると、ここも藤が咲いていて、紀州と同じく藤白御坂と称すべき眺めであるよ」の意。
 「藤の実」は、藤の花に対していったもの。「俳諧」には、和歌・連歌に対比させる意識がうかがえる。
 「花の跡」は、花の咲き終わった後の意で、和歌・連歌の伝統を受け継ぎ発展させるものである、という信念に満ちた俳諧観が感じられる。

 さて、掲句――素牛を目して、宗祇ゆかりの地である関の風雅の伝統を支える人とした挨拶の意とも読みとれる。しかし、それよりは、素牛に俳諧の目指すところを示しているととりたい。
 歌や連歌などにはよく取り上げられる藤の花だが、自分はその後の、一見みどころのない藤の実を俳諧として取り上げようというのだ。
 『白冊子』の、「春雨の柳は全体連歌なり。田螺(たにし)取る烏は全く俳諧なり」、「詩歌連俳はともに風雅なり。上三つのものには余す所も、その余す所まで、俳はいたらずといふ所なし」などのことばが想い起こされる。
 「藤の実」が季語で秋季。藤の実は、青いものは初夏から見られるが、莢(さや)の乾燥するのは秋である。この句では、「藤の実」の現実体験から発想したものではない。いわゆる“あたま”で作った俳句である。

    「関のあたりの宗祇ゆかりの藤の花は、今に至るまで年々美しく咲き
     匂っているというが、今の季節ではその花も過ぎてしまって、ただ
     青い実が葉蔭にあるばかりであろう。その藤の実は、花とは違って
     和歌・連歌にもたえてとりあげられることのなかったものであるが、
     私はこの藤の実の風情を、わが俳諧にとりあげて詠んでゆこうと思う」


      春琴抄閉づ藤の実に細き雨     季 己