壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

丹精

2009年09月26日 17時13分22秒 | Weblog
 『第46回 花岡哲象 日本画展』(東京・銀座『画廊 宮坂』)は今日が最終日。もう一度、拝見したいと思っていたが今日は出かけられなかった。
 会期中、毎日でも通いたかったのだが、3回しか観に行けなかった。
 黄山の風景が、殊に印象深い。魂が抜け出し、先生の作品の中に“あそぶ”。なんと心地いいのだろう、『雨過顕青』の世界は……。不意に「千歳老松」(せんざいのろうしょう)という禅語が浮かぶ。

 ――「千歳老松」は、字面の上からいうと、《千年も生きながらえた古い松》ということである。だから、長寿のめでたさをなぞらえる、祝いのことばによく用いられる。
 しかし、禅語として用いられるときは、違うようである。永遠に変わらぬ真理の象徴として、「千歳老松」というらしい。
 「松樹千年翠」(しょうじゅせんねんのみどり)もまた同じ意味を持つ語でろう。そして共に、「あなたの目の前に、千年の老松になって不変の真理が示されているのに、まだ、それがおわかりにならないのですか」と、自覚をうながされているような気がしてくる。

 丹精こめた作品、丹精こめて育てた盆栽、などとよく聞く。人生もまた丹精にあるのではないか。
 茶器や花器などの道具は、高価な新品よりも、古い年代の作品が珍重される。
 さびの生じやすい茶釜に、さび一つないのは丹精のたまもの、割れやすい花瓶に欠け傷ひとつないのも丹精のたまものである。
 どんなに昔の古い銘品でも、さびだらけの茶釜や水漏れのする花器には存在の意味がない。古いだけが値打ちではない。丹精の努力が尊ばれるのである。

 人間も同じで、身体の健康法も大切だが、心の手入れを怠ってはならない。
 アメリカの詩人ホイットマンではないが、「若きはうるわし 老いたるはなおうるわし」を願うべきではないか。同じうるわしさでも、若きと老いたるとでは、うるわしさの次元が異なる。
 若人のうるわしさは、自然のなせる「麗わしさ」であり、老人のそれは丹精の「美わしさ」である。
 麗人は、老いても必ずしも美人になるとは限らない。若いときの不美人も丹精によっては、老いて美人となり得るのである。

    「年を重ねただけでは人は老いない。理想を失うときに、初めて老いがくる。
     歳月は皮膚のしわを増すが、情熱を失うときに、精神はしぼむ」
                             (サミエル・ウルマン)


      こほろぎや書画の重みの四畳半     季 己


         ※ 【ブログ一時中断のお知らせ】

 いつも拙い文をお読みいただき、感謝申し上げます。ありがとうございます。
 昨年の元日以来、一日も休むことなく更新して参りましたが、都合により、9月28日からしばらくの間、当ブログを中断させていただきます。
 こだわりも執着心も、ましてや「マニフェストに書いてあるから」などという根性もない変人ゆえ、スパッと休ませていただきます。
 11月に入りましたら、また、のぞきに来てください。その頃になれば……。
 10月中は、昨年度のところをお読みいただけたら、最高の喜びです。
 ブログが書ける状況になりましたら、すぐに再開し、一から出直します。
 どうぞよろしくお願い申しあげます。ありがとうございました。

                      平成21年9月26日(土)
                            武田 季己 拝