鳩山首相が誕生し、いよいよ今夜から鳩山内閣が発足する。その新内閣に次の、“はなむけ”の言葉を贈りたい。
「好児不使爺銭」という言葉がある。「こうじは、やせんをつかわず」と読む。
字面の意味は、「よく出来た子は、決して親父の金を使わぬ。自分で働いて自分で儲ける」ということだろう。
世間を見ても、出来のよい子は親父のすねをかじるようなことはしない。「好児不使爺銭」は、こうした俗語で、次の意味を述べようとする。
「すぐれた弟子は、師の世界とは別の天地を自分で開いていく。つまり、自分のグラウンドを持つ」と。
経済界を例にとるなら、いかに大きな事業をしていても、親父の時代の財産を少しも減らさないというのは、本当の孝行でもないし、現状維持が精一杯では、親父以上のやり手とは言えないであろう。親父の財産を殖やして、はじめて孝行息子だし、親に合わせる顔もあろう。
財産に限らない。師の学徳にさらにプラスしたものを身につけてこそ、“親勝り”の呼称に価いする。
学問でも財産でも、先代の遺産の上にあぐらをかいていては、だめだということになる。時代が変われば貨幣価値が変わるように、知識も修行も従前のままの定額では、現代から落伍してしまうであろう。
昔から、「学問や徳の力が、師と同じ程度だったら、その弟子の実力は、師の半ばにも及ばない。師に倍して、はじめて師の半徳を超す」という。
「弟子の力量が師と同格であるなら、師と肩を並べるどころか、師の半分にも及ばない。師の二倍の力を得て、はじめて師より半身優れている」ということになる。
修行の上からいうと、師の修行以上の修行に励んで、はじめて師の徳が相続されたと言えよう。
親父の財産や、師の悟りが受け継がれただけで満足してはならない。「爺銭」という親父のへそくり金の、学力や悟りに目もくれず、わが道を行く者が、やがては、本当の意味で父や師を顕彰する生きた孝行になるであろうことを、この語に学びとりたい。
秋祭たろうゆきおの笛が鳴り 季 己
「好児不使爺銭」という言葉がある。「こうじは、やせんをつかわず」と読む。
字面の意味は、「よく出来た子は、決して親父の金を使わぬ。自分で働いて自分で儲ける」ということだろう。
世間を見ても、出来のよい子は親父のすねをかじるようなことはしない。「好児不使爺銭」は、こうした俗語で、次の意味を述べようとする。
「すぐれた弟子は、師の世界とは別の天地を自分で開いていく。つまり、自分のグラウンドを持つ」と。
経済界を例にとるなら、いかに大きな事業をしていても、親父の時代の財産を少しも減らさないというのは、本当の孝行でもないし、現状維持が精一杯では、親父以上のやり手とは言えないであろう。親父の財産を殖やして、はじめて孝行息子だし、親に合わせる顔もあろう。
財産に限らない。師の学徳にさらにプラスしたものを身につけてこそ、“親勝り”の呼称に価いする。
学問でも財産でも、先代の遺産の上にあぐらをかいていては、だめだということになる。時代が変われば貨幣価値が変わるように、知識も修行も従前のままの定額では、現代から落伍してしまうであろう。
昔から、「学問や徳の力が、師と同じ程度だったら、その弟子の実力は、師の半ばにも及ばない。師に倍して、はじめて師の半徳を超す」という。
「弟子の力量が師と同格であるなら、師と肩を並べるどころか、師の半分にも及ばない。師の二倍の力を得て、はじめて師より半身優れている」ということになる。
修行の上からいうと、師の修行以上の修行に励んで、はじめて師の徳が相続されたと言えよう。
親父の財産や、師の悟りが受け継がれただけで満足してはならない。「爺銭」という親父のへそくり金の、学力や悟りに目もくれず、わが道を行く者が、やがては、本当の意味で父や師を顕彰する生きた孝行になるであろうことを、この語に学びとりたい。
秋祭たろうゆきおの笛が鳴り 季 己