壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

秋の暮

2009年09月24日 20時10分13秒 | Weblog
 「秋は夕暮」といったのは、『枕草子』の清少納言。『新古今集』の、
     さびしさはその色としもなかりけり槙立つ山の秋の夕暮   寂 蓮
     心なき身にもあはれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮   西 行
     見渡せば花も紅葉もなかりけり裏の苫屋の秋の夕暮    定 家
 の「三夕(さんせき)の和歌」が知られ、このことばの季感を固定させたようである。
 「秋の暮」は、秋の一日の暮れ方と受け取ったり、秋の季節の終わりと受け取ったり、と二義性を持っているが、今では前者の意で使われている。
 秋の季節も終わりに近いころを「暮の秋」「暮秋(ぼしゅう)」という。「晩秋」とほぼ同じ意味だが、より心理的に捉えているように思える。

          武蔵野を出づる時、野ざらしを
          心に思ひて旅立ちければ
        死にもせぬ旅寝の果てよ秋の暮     芭 蕉

 長途の旅の果てに、木因亭に草鞋(わらじ)を解き、暮秋の感の中にほっと一息ついているのである。
 前書きを読むと、江戸出発の際の「野ざらしをこころに風の沁む身かな」というあの悲愴な覚悟を思い起こしていることがわかる。
 「野ざらし」すなわち死ということは、この旅において常に芭蕉の心を離れないものであった。だが、この句には、そうして負いつづけてきた「野ざらし」の思いを、ようやく横から見つめているような響きがある。
 俳句は、正面からだけ見るものではない、ということがよくわかる。裏から眺め、斜めから見ることのほうが、むしろ大事なのではないか。稚魚先生の「死ねることの幸ひ」のように。

 『後の旅』(元禄八年刊・如行編)に「死よ死なぬ浮身の果ては秋の暮」の句を収め、大垣での作なるよしの付記がある。この句は、初案としてみると、その発想法はなかなか興味を誘う。この旅を貫く「死」についての思いが、「死よ死なぬ」の曲折した表現によく出ているからである。その気負い立った心が、声調をたかぶらせている点を内に抑え込んで、「死にもせぬ」という形が生まれたのであろう。

 木因は谷氏。名は九太夫といい、大垣の船問屋。はじめ北村季吟の門人であったが、後、芭蕉の門に入り、芭蕉と親交があった。
 季語は「秋の暮」で、晩秋の意を表す「暮の秋」と区別して、秋の夕暮の意に用いるのが普通であるが、ここでは暮秋の心で使っているように思える。

    「この旅に出で立つ時は、いつ路傍に死んで野ざらしとなり果てるかも知
     れぬと、覚悟を決めていたのであったが、どうやら旅寝を重ね重ねて、
     死ぬこともなく今日ここに身を落ちつけることが出来た。しみじみ暮秋
     の感が身に沁みることである」


      沢音の心に澄むや暮の秋     季 己