壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

お月見

2009年09月27日 15時13分40秒 | Weblog
        名月や門に指し来る潮頭     芭 蕉

 深川新芭蕉庵の実景であろう。「芭蕉を移す詞」の中に、
    「地は富士に対して柴門景を追ひて斜めなり。浙江の潮、三股の淀みに
     たたへて、月を見る便よろしければ、初月の夕より、雲をいとひ雨を
     くるしむ」
 とある。
 したがって、「門に指し来る」の門は、この「柴門(さいもん)」であろう。
 折しも、名月の夜で大潮のことであるから、ふだんよりずっと深く海水が指して来て、柴門のあたりに、潮の穂先が寄せているのである。
 名月の夜の潮の動きを把握したもので、それが句の勢いとなって生きている作である。

 この句の中七、『桃の実』などには「門“へ”さしくる」、『泊船集』などには「門“に”さし“込む”」とある。
 「門に」とある方が、「門へ」よりも、作者のいる柴門の方に迫ってくるさまが、的確に感じられる。
 また、「さしくる」と「さし込む」とでは、「さしくる」の方が眺望の広がりをもってくると思う。

 ところで、「門」は、変人は「モン」と読んでいるが、読み方については論がわかれている。「芭蕉を移す詞」の中の「柴門」に応じて「モン」とする説、また、「かどぐち」・「かどべ」のこころとして「カド」とする説などがある。
 「潮頭」は、満潮時に潮の満ちて、ひたひたと延びてくる潮の穂先のこと。満月は大潮で、秋の潮は夜に高い。東京湾にあっては、平常より二メートル余り高くなるという。

 季語は「名月」で秋。芭蕉庵の実景に即したもので、近代俳句の写生と通ずるところがあるために、比較的よく理解されてきた一つである。
 「名月」は、陰暦八月十五日の夜の月。「明月」「満月」「望月」「芋名月」「十五夜」などともいわれる。
 まだ明るい夕焼けのころから、栗・芋・団子などを三方に盛り、薄を飾って月の出を待つ風習は、政権交代があろうが、ぜひ残しておきたいものである。
 古来より日本には、「ツクヨミノミコト」「ツクユミノミコト」の伝説があり、死と再生をつかさどる若水信仰がある。月の満ち欠けや、潮の干満に対する畏敬の念も、月と深い関わりがあると考えられてきた。
 また、月の中に棲む動物の兎・蛇・ひきがえる・鼠・犬・蜥蜴・蟹なども、洋の東西にかかわらず、再生と不死の象徴として捉えられた。これに日本では、仏教的な意味も加わり、お月見が行事として、大切にされるようになったという。

    「名月がいま上ろうとして、その光のもと、柴門を指してひたひた寄せて
     来る豊かな満潮の穂先が、しらじらと見えている」


      夕月夜自から問ひて答へつつ     季 己


 ※きのう、お知らせしましたように、明日(9月28日)からしばらく、当ブログをお休みさせていただきます。詳しくは、昨日のブログの最後をご覧願います。