壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

彼岸の入りに

2009年09月20日 20時12分18秒 | Weblog
 『わっはっは!泉崎村』の「泉崎村長 小林日出夫日記」を見てびっくりした。
 「結い(助け合い)の精神」で村づくりに邁進されていた、あの小林日出夫村長が急死されたとのこと……。
 7月25日(土)の「無料招待会」で、小林村長さんとお話ししたのが最後となってしまった。
 村長さんの日記は“お気に入り”に登録し、毎日のようにチェックし、絶筆となってしまった9月16日付の「23.2%」も、17日に読ませていただいた。
 その村長さんが、9月17日午後10時30分ごろ急性虚血性心疾患でお亡くなりになったというのだ、63歳の若さで。
 彼岸の入りの今日、小林日出夫村長のご冥福を祈り、拙宅の観音像に観音経と阿弥陀経をあげさせていただいた。合掌!

 ――阿弥陀経に、「舎利子よ。生ける者どもは、かの仏国土に生まれたいという願いを起こすべきである。それは何故かというと、かの世界で、実に、このような善き人たちとともに会うことになるからである」という一節がある。
 これを「俱会一処(くえいっしょ)」という。つまり、
 「浄土の教えを聞いた人びとは、浄土に生まれたいと願うべきである。そのわけは、そこへ行けば、数多くのよき人びとと俱(とも)に会えるからだ」
 ということだろう。
 「よき人びと」というのは、阿弥陀如来の教えを聞こうと、同じ願いのもとに集まる同行、すなわち、道を同じくして法を求める友を指す。「俱」は、共にうちそろいて、という意味。
 浄土へ行けば、そこでみんなに会うことが出来る。親子・兄弟・夫婦が、再び浄土でめぐり会えるとの「俱会一処」の願いは、愛する者との悲しい別れをかみしめ、同じ念仏に生きる信仰の喜びでもあろう。

 「俱会一処」は、また「一蓮托生(いちれんたくしょう)とも展開される。すなわち、死後は俱に極楽に往生して、同一の蓮華に身をあずけるのが、本当の意味の「一蓮托生」である。
 とかく、「善くても悪くても、行動や運命を共にする」のが、一蓮托生だと考えられているが、それは解釈の応用で、本来の意味はさきに記したとおりである。

 詩人の西條八十は、不幸にして夫人に先立たれた。夫人の遺骨を埋めるにあたり、氏も自分の名を、故夫人の名と並べて生前に墓碑に記した。そして、墓誌銘につぎの詞を刻んだ。

     われら楽しくここに眠る
     はなれ離れに生まれ めぐりあい
     短かきときを愛に生きし二人 悲しく別れたれど
     いまここに こころとなりて
     永遠に 寄り添い眠る    八十

 「永遠」は、「とこしえ」と読むのだろうか。みごとな「俱会一処」の詩である。


      絶筆になるとはまさか虫の声     季 己