夏は水中にただよう藻にも、ひそかな花が咲く。
石菖藻・梅花藻・松藻・金魚藻・菊藻・蛭むしろなど、沼や湖に生える淡水藻の花を総称して、「藻の花」という。
これらの藻は、春に繁茂し、夏に黄緑色や白色の花を咲かせる。水の流れや水位によって、浮かんだり沈んだりするのがおもしろい。
気をつけてみると、どれも可憐で、人を恋う花である。
晩節やポツと藻の咲く硝子鉢 不死男
この硝子鉢は、金魚鉢であろうか。すると、金魚鉢に入れる藻は松藻と呼ばれるもの、ということになる。
藻の花やわが生き方をわが生きて 風 生
「晩節や」もそうであるが、この句も実によく季語が効いている。
「わが生き方をわが生きて」は、まるで自分のことを言われたようで、忘れられない句である。何と自分勝手であるかと、我ながらあきれるが、直すつもりはさらさらない。
「外国人のための日本語教室」でも、変人ひとりが、文法を無視して、発音と口答練習を徹底的に行なっている。責任者の先生は、「もっと文法を教えるように」とおっしゃるが、一切無視。「文法は教える側の都合で作ったもの。わたしは外国人に文法ではなく、日本語を教えたいのだ」とうそぶいて……。
渡りかけて藻の花のぞく流れかな 凡 兆
小川にかけられている小さな橋を渡る途中に、ふと可憐な藻の花が咲いているのに気づき、思わず足を止めて流れをのぞき込む、という情景であろう。
一句から、藻の花の咲く清冽な川が連想される。
また、「渡りかけて」、「藻の花のぞく」という二つの動作によって、花に目をとめる人の姿が生動する。
この句は一見、即興的な句に思われるが、実は違うのだ。変人の師、井本農一先生は、次のように述べておられる。
「これは即興句というようなものではない。なるほど、立ち止まって
藻の花をのぞき見たのは即興であろう。だが、句は軽い即興のいい
捨てではない。しっかりしたデッサン、鋭い詩人的直観、ゆるぎな
い練達の技巧、それらの総合の中に成った名句である」
(明治書院刊『俳句講座』4)
来し方は利根の花藻の淡さにて 季 己
石菖藻・梅花藻・松藻・金魚藻・菊藻・蛭むしろなど、沼や湖に生える淡水藻の花を総称して、「藻の花」という。
これらの藻は、春に繁茂し、夏に黄緑色や白色の花を咲かせる。水の流れや水位によって、浮かんだり沈んだりするのがおもしろい。
気をつけてみると、どれも可憐で、人を恋う花である。
晩節やポツと藻の咲く硝子鉢 不死男
この硝子鉢は、金魚鉢であろうか。すると、金魚鉢に入れる藻は松藻と呼ばれるもの、ということになる。
藻の花やわが生き方をわが生きて 風 生
「晩節や」もそうであるが、この句も実によく季語が効いている。
「わが生き方をわが生きて」は、まるで自分のことを言われたようで、忘れられない句である。何と自分勝手であるかと、我ながらあきれるが、直すつもりはさらさらない。
「外国人のための日本語教室」でも、変人ひとりが、文法を無視して、発音と口答練習を徹底的に行なっている。責任者の先生は、「もっと文法を教えるように」とおっしゃるが、一切無視。「文法は教える側の都合で作ったもの。わたしは外国人に文法ではなく、日本語を教えたいのだ」とうそぶいて……。
渡りかけて藻の花のぞく流れかな 凡 兆
小川にかけられている小さな橋を渡る途中に、ふと可憐な藻の花が咲いているのに気づき、思わず足を止めて流れをのぞき込む、という情景であろう。
一句から、藻の花の咲く清冽な川が連想される。
また、「渡りかけて」、「藻の花のぞく」という二つの動作によって、花に目をとめる人の姿が生動する。
この句は一見、即興的な句に思われるが、実は違うのだ。変人の師、井本農一先生は、次のように述べておられる。
「これは即興句というようなものではない。なるほど、立ち止まって
藻の花をのぞき見たのは即興であろう。だが、句は軽い即興のいい
捨てではない。しっかりしたデッサン、鋭い詩人的直観、ゆるぎな
い練達の技巧、それらの総合の中に成った名句である」
(明治書院刊『俳句講座』4)
来し方は利根の花藻の淡さにて 季 己