有難き姿拝まん杜若 芭 蕉
昨日とりあげた「夏山に足駄を拝む首途かな」は、元禄二年四月の作。この句はそれよりちょうど一年前の、貞享五年四月の作である。
この句は、弟子の惣七に宛てた書簡に、
「廿一日、布引の滝に登る。山崎道にかかりて、能因の塚、金竜寺の入
相の鐘を見る。『花ぞ散りける』といひし桜も、若葉に見えて又をか
しく、山崎宗鑑屋舗(やしき)、近衛殿の、『宗鑑が姿を見れば餓鬼
つばた』と遊ばしけるをおもひ出でて」
とあって掲出されている。
書簡文中の「近衛殿の……」の話は、いろいろな本にあって人のよく知るところであった。句は、杜若(かきつばた)を折ろうとする宗鑑の痩せさらぼうた姿をからかったものである。
芭蕉の句は、杜若そのものに宗鑑の面影を見ようというのではない。
「宗鑑が姿を見れば餓鬼つばた」の句を通じ、杜若の縁で思い浮かべられる宗鑑の、餓鬼のようだといわれた痩せからびた、ありがたい姿を心中に思い、拝もうというのである。
「山崎宗鑑屋舗」は、「待月庵」あるいは「妙喜庵」といい、山崎街道に近いところにあった。
宗鑑は、足利義尚に仕え、のち剃髪して、山城の国(今の京都府の南部)山崎に住んで、油を売って生活したと云われる。『犬筑波集』を撰し、荒木田守武と並んで俳諧の祖といわれている。
「杜若」が季語で夏。宗鑑の故事を呼び起こす契機となっているが、季語としては働いていない。
「宗鑑の屋敷跡を尋ねたところ、折から杜若が咲いていた。その杜若の姿
に、痩せからびた俳諧の先達の有難い姿を心に思い浮かべて、どれ、ひ
とつ拝むとしようか」
うぶすなのやうな村びと杜若 季 己
昨日とりあげた「夏山に足駄を拝む首途かな」は、元禄二年四月の作。この句はそれよりちょうど一年前の、貞享五年四月の作である。
この句は、弟子の惣七に宛てた書簡に、
「廿一日、布引の滝に登る。山崎道にかかりて、能因の塚、金竜寺の入
相の鐘を見る。『花ぞ散りける』といひし桜も、若葉に見えて又をか
しく、山崎宗鑑屋舗(やしき)、近衛殿の、『宗鑑が姿を見れば餓鬼
つばた』と遊ばしけるをおもひ出でて」
とあって掲出されている。
書簡文中の「近衛殿の……」の話は、いろいろな本にあって人のよく知るところであった。句は、杜若(かきつばた)を折ろうとする宗鑑の痩せさらぼうた姿をからかったものである。
芭蕉の句は、杜若そのものに宗鑑の面影を見ようというのではない。
「宗鑑が姿を見れば餓鬼つばた」の句を通じ、杜若の縁で思い浮かべられる宗鑑の、餓鬼のようだといわれた痩せからびた、ありがたい姿を心中に思い、拝もうというのである。
「山崎宗鑑屋舗」は、「待月庵」あるいは「妙喜庵」といい、山崎街道に近いところにあった。
宗鑑は、足利義尚に仕え、のち剃髪して、山城の国(今の京都府の南部)山崎に住んで、油を売って生活したと云われる。『犬筑波集』を撰し、荒木田守武と並んで俳諧の祖といわれている。
「杜若」が季語で夏。宗鑑の故事を呼び起こす契機となっているが、季語としては働いていない。
「宗鑑の屋敷跡を尋ねたところ、折から杜若が咲いていた。その杜若の姿
に、痩せからびた俳諧の先達の有難い姿を心に思い浮かべて、どれ、ひ
とつ拝むとしようか」
うぶすなのやうな村びと杜若 季 己