選挙の投票に行ったのは何年ぶりだろうか。
「支持政党なし」と言って投票に行かなかったが、実は、ただ行くのが面倒なだけだったのである。それが今日、行ったのだ、都議選の投票に。
2週間ほど前のこと。近所の大型スーパーへ買い物に行く途中、昔の知人に出会った。知人といっても、地方へ転居した彼は、選挙間近になるとこの地に出没する人間なのである。
声をかけてきた理由は分かっている。「今、急いでいるから」と言っても、「どこかその辺でお茶でも」と、しつこい。無視して歩き出す。
すると「じゃ、また後でお宅へ伺います」。
「来る必要ないよ。いくら来たって、ケツなめ掃除の○○党になんか入れないよ」。
それが拙宅にやってきたのである、都議選告示の翌日に。
開けておいた窓から声をかけてきたが、「入れないよ、帰れ」と一喝。何か言いたそうであったが、苦笑いして帰って行った。
来るなと言ったのに、やって来たのが気にくわない。選挙になると、どうしてあんなに熱心になるのだろう。選挙になると、どうしてみんな親しい友達になってしまうのだろう。
なぜか彼がかわいそうに思えてきた。よし、今回は投票に行こう!
ということで、午前中、早々と投票をすませた。もちろん、○○党候補を落とすために、反対候補に投票したことは、言うまでもない。
ひとの嫌がることはすべきではないが、彼のお陰で、貴重な一票を行使できたことは感謝したい。
昼食後、一息入れてから銀座へ行く。
東銀座駅近くに行列が出来ている。見ると、行列の最後に、「生キャラメル云々」と書かれたプラカードを掲げた人がいる。ということは、北海道のあの有名な生キャラメルか。行列嫌いの変人は、もちろんパス。
松坂屋銀座店別館へ行ってみる。4階美術画廊で、「《水墨の夢幻》馬 驍水墨画展」・「《花の讃歌》王荻地墨彩画展」を拝見。と思ったが、「墨彩画展」は、オバチャン・オバチャン……でいっぱい。エロジジイと思われそうなので、遠くから眺めただけでパス。
反対に、「水墨画展」は、作者はおろか画廊の担当者さえいない。しばらくは変人ただひとり。じっくりと観させていただく、穴のあかない程度に。
パンフレットには、「芸術の対話」と題して、次のような作者の言葉が載っている。
自ら心の内在的な世界を忠実に表現し、外界に影響される奴隷には
ならず、水と墨の流動的潜在的な世界、隠喩された視覚的なイメージ
を再点描する、鑑賞者に神秘的な“真・善・美”を連想させます。
―馬 驍―
変人が最も感心(感動ではない)したのは、「笛声吹向水雲間」と題する、何を描いたのかわからない作品。
たしかに馬さんは、水と空気を描かせたら天下一品、ひじょうにウマイ。だが、形あるもの、例えば、富士山・薬師寺などを描いた作品は、イマイチなのだ。
墨を垂らし、滲ませることにより、筆で描くことの出来ない自然の力で、墨に命を与える独自の溌墨技法は素晴らしい。これだけで十二分に完成している。これに具象物を描き加えることは、蛇足であろう。
「絵はがき」のような作品を、最高と考える日本人に迎合することなく、独自の道を歩まれんことを切に願う。
「外界に影響される奴隷にはならず」と述べておられるが、今の氏は、「絵はがき」を描かせられているように思えてならない。
再度、お願いする。どうか「蛇の足」だけは描かないでいただきたい。そうすれば感心は、感動へと変わるに違いない。やはり、へそまがり?
日日草おもひつめたる歩を重ね 季 己
「支持政党なし」と言って投票に行かなかったが、実は、ただ行くのが面倒なだけだったのである。それが今日、行ったのだ、都議選の投票に。
2週間ほど前のこと。近所の大型スーパーへ買い物に行く途中、昔の知人に出会った。知人といっても、地方へ転居した彼は、選挙間近になるとこの地に出没する人間なのである。
声をかけてきた理由は分かっている。「今、急いでいるから」と言っても、「どこかその辺でお茶でも」と、しつこい。無視して歩き出す。
すると「じゃ、また後でお宅へ伺います」。
「来る必要ないよ。いくら来たって、ケツなめ掃除の○○党になんか入れないよ」。
それが拙宅にやってきたのである、都議選告示の翌日に。
開けておいた窓から声をかけてきたが、「入れないよ、帰れ」と一喝。何か言いたそうであったが、苦笑いして帰って行った。
来るなと言ったのに、やって来たのが気にくわない。選挙になると、どうしてあんなに熱心になるのだろう。選挙になると、どうしてみんな親しい友達になってしまうのだろう。
なぜか彼がかわいそうに思えてきた。よし、今回は投票に行こう!
ということで、午前中、早々と投票をすませた。もちろん、○○党候補を落とすために、反対候補に投票したことは、言うまでもない。
ひとの嫌がることはすべきではないが、彼のお陰で、貴重な一票を行使できたことは感謝したい。
昼食後、一息入れてから銀座へ行く。
東銀座駅近くに行列が出来ている。見ると、行列の最後に、「生キャラメル云々」と書かれたプラカードを掲げた人がいる。ということは、北海道のあの有名な生キャラメルか。行列嫌いの変人は、もちろんパス。
松坂屋銀座店別館へ行ってみる。4階美術画廊で、「《水墨の夢幻》馬 驍水墨画展」・「《花の讃歌》王荻地墨彩画展」を拝見。と思ったが、「墨彩画展」は、オバチャン・オバチャン……でいっぱい。エロジジイと思われそうなので、遠くから眺めただけでパス。
反対に、「水墨画展」は、作者はおろか画廊の担当者さえいない。しばらくは変人ただひとり。じっくりと観させていただく、穴のあかない程度に。
パンフレットには、「芸術の対話」と題して、次のような作者の言葉が載っている。
自ら心の内在的な世界を忠実に表現し、外界に影響される奴隷には
ならず、水と墨の流動的潜在的な世界、隠喩された視覚的なイメージ
を再点描する、鑑賞者に神秘的な“真・善・美”を連想させます。
―馬 驍―
変人が最も感心(感動ではない)したのは、「笛声吹向水雲間」と題する、何を描いたのかわからない作品。
たしかに馬さんは、水と空気を描かせたら天下一品、ひじょうにウマイ。だが、形あるもの、例えば、富士山・薬師寺などを描いた作品は、イマイチなのだ。
墨を垂らし、滲ませることにより、筆で描くことの出来ない自然の力で、墨に命を与える独自の溌墨技法は素晴らしい。これだけで十二分に完成している。これに具象物を描き加えることは、蛇足であろう。
「絵はがき」のような作品を、最高と考える日本人に迎合することなく、独自の道を歩まれんことを切に願う。
「外界に影響される奴隷にはならず」と述べておられるが、今の氏は、「絵はがき」を描かせられているように思えてならない。
再度、お願いする。どうか「蛇の足」だけは描かないでいただきたい。そうすれば感心は、感動へと変わるに違いない。やはり、へそまがり?
日日草おもひつめたる歩を重ね 季 己