壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

2009年07月26日 20時58分45秒 | Weblog
          木曽路の旅を思ひ立ちて、大津にとどまる比(ころ)、
          先づ瀬田(せた)の蛍を見に出でて        
        此の蛍田毎の月にくらべみん     芭 蕉

 「瀬田」は蛍の名所である。『滑稽雑談』に、「江州石山に蛍谷といふ所はべる。この地の蛍火、四月下旬、五月節に入りて後十日ほど、盛りに出る」とある。

 眼前の蛍にみとれながらも、思いは一方、田毎(たごと)の月に傾いている。いかにも旅に思いあこがれている心が感じられる句である。
 季語は「蛍」で夏。

    「音にきこえた瀬田の水に映るこの蛍の風情を心に深くとどめておいて、
     この秋に見る予定の、更科の田毎の月の風情と思い比べてみよう」

          ほたる
        目に残る吉野を瀬田の蛍かな     芭 蕉

 前の旅の強い印象が消えない上に、さらに新しい刺激を受けたとまどいが出ているような句である。
 発想は、「此の蛍田毎の月にくらべみん」の場合とは逆に、過去と現在の交錯になっている。
 この句は、真蹟懐紙の写しにのみ見え、「よしのハ」の「ハ」を見せ消ちにして「を」に改めてあるという。
 「此の蛍」の句と同様、『笈の小文』の旅で吉野に遊んだ後、木曽路の旅を思い立って、大津にとどまっていた頃、瀬田に遊んだ折の作と思われる。
 「吉野は」という初案の意は、「この旅中、さまざまな景物に触れえた。けれども、今も目に残るのは吉野の花のさまである。それと同様に、この瀬田の蛍の美しさも、長く目に残ることであろう」というのであろう。
 これが、「吉野を」となると、たった一字違いではあるが、つぎのような意になる。

    「瀬田の蛍を見に来たが、私のまぶたのうちにはまだ、吉野のあれこれ
     がはっきり残っている。その吉野の名残をかき乱すように、蛍が飛び
     舞っていることだ」


      恋蛍いろはくづして光りけり     季 己