壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

浜昼顔

2009年07月16日 20時55分51秒 | Weblog
        きらきらと浜昼顔が先んじぬ     汀 女

 夏の海の、灼けつくような砂浜。淡紅色の浜昼顔が、萎れもせずに咲いている。
 いかにも鄙びた慎ましやかな花ではあるが、また言い知れぬ生命の力強さを感じさせる花である。
 月見草の花が、日盛りには意気地なく萎れて、醜い姿をさらしている。葉までもが、だらんと垂れて、まるで叱られているセントバーナード犬。
 それにひきかえ、浜昼顔ばかりは、どんな暑い日差しにも、浜辺へ来る人々を、さり気なく持てなす術を忘れてはいない。

        はまひるがほ空が帽子におりて来て     展 宏

 浜昼顔は、きっと生え抜きの浜っ子なのであろう。つんつるてんの単衣絣に縄の帯を締め、尻切れ草履をつっかけて、一日中、棒っ切れを持ってトンボを追いかけて暮らす悪戯小僧。浜昼顔の良さは、これである。

        大汐や昼顔砂にしがみつき     一 茶

 海岸の砂地に自生するヒルガオ科の蔓性多年草が、浜昼顔である。地下茎が砂の中に、地上茎が砂の上を這い、葉は丸みを帯びて厚く光沢がある。
 五~六月ごろ、葉腋に長い柄を出し、その先に昼顔に似た、淡紅色の小さい花をつける。一茶の句のように、ただ“昼顔”とも言っている。

        昼顔や舟ながれ来て網打てる     稚 魚
 とか
        昼顔や捨章魚壺のたまり水     野風呂
 の句にあるとおり、磯の香がムンムンするありのままの漁村の眺めこそ、浜昼顔が所を得たものといえよう。

        妻恋ふや浜ひるがほを褥とし     欣 一

 ときに浜昼顔は、広い範囲に群生する。その群生する浜昼顔を褥(しとね)として、妻を恋いながら、ひとり寝そべっているわびしさを、すさまじいまでに感じさせてくれる。


      浜昼顔かなしみはみな砂が吸ふ     季 己

昼顔

2009年07月15日 23時02分23秒 | Weblog
 炎昼の公園に、可憐なピンクの花が咲き盛っている。朝顔に似て、整った形の花である。昼顔だ。
 昼顔は、野原や道端など、いたるところに自生するヒルガオ科の多年生蔓草である。「昼顔は摘まぬ花なり石の門  苑子」とあるように、他の草や垣根にからみつく。初夏から初秋にかけて花をつけ、おもに日中に開花するので、昼顔の名がある。

        ひるがほに米つき涼むあはれなり     芭 蕉

 上五が「夕顔」であると、一日を終えたくつろぎとなって、米搗きのあわれさの感じが生きてこない。
 「米搗き」は、江戸の商家などに雇われ、その業に従事した者で、越後・信濃からの出稼ぎ人が多かった。当時、精米は自分の家でしたものなのである。
 昼顔というものが、これほど昼顔らしい感じを出しているのは、米搗きとの関わり合いの中に、言葉で説明しがたい隠微な気分を映発するものを持っているからである。それを見抜いた目は、まことに鋭い。

 この句の初案は、
        夕顔に米つき休む哀れかな
 で、再案の、
        ゆふがほに米つきやすむ哀れなり
 を経て、決定稿が冒頭に掲げる形である。
 初案・再案の「夕顔」が、決定稿において「昼顔」に代えられてしまったのである。芭蕉にとって、「米搗き」に最もふさわしいのは、「夕顔」より「昼顔」の花ということなのであろう。

    「日盛りに昼顔が淡い花をつけている。そのほとりに、今まで働いていた
     米搗き男が、汗を拭い一息入れている。そのホッとした様子が、いかに
     もあわれ深い感じを誘う」

 芭蕉は、「昼顔」と「米搗き」を取り合わせたが、一茶は、「昼顔」と「豆腐屋」を取り合わせて、次のような句を詠んでいる。
        豆腐屋が来る昼顔が咲きにけり     一 茶


      昼顔の咲きのぼるさき白き雲     季 己

梅雨明け

2009年07月14日 20時59分31秒 | Weblog
 今日、関東甲信の梅雨が明けた。平年より六日早く、昨年より五日早いという。本州では一番早い梅雨明けである。
 梅雨明けには雷鳴を伴う大雨・暴風がつきもの。
 昨夜の富士山がそのようで、富士山新五合目駐車場で、直径一メートル余りの石が落下し、駐車中のキャンピングカーを直撃した……。(合掌)

        目にかかる時やことさら五月富士     芭 蕉

 五月富士を仰ぎえた喜びなのか、見えない五月富士を思いやっての作なのかは、必ずしもはっきりしない。『蕉翁句集』の前書きを信ずれば、前者として解すべきものであろう。
 ただし、島田宿からの五月十六日付曾良宛書簡には、
 「箱根雨難儀、下りも荷物を駕籠に付けて乗り候。漸くに三島に泊り申し候。……十五日島田へ雨に降られながら着き候」
 とあり、『蕉翁句集』の前書きには、この句を性格づけるための虚構の跡が感じられる。ともあれ、芭蕉には、これが富士の見納めになってしまった。

 従来は、「五月富士といわれるだけあって、今はことさら富士が目につくときだ」とか、「予期しないで目に入ったときこそ、五月富士の美しさはひとしおだ」といった風の解が行なわれていたようであるが、はたしてそうだろうか。

 「目にかかる」は、目につく、目にはいる、の意。
 季語は「五月富士」で夏。
 「五月富士」は、既成の季語のように芭蕉は用いているが、江戸期までの歳時記には見あたらない季語である。
 現在では、ほとんど雪も消え、夏山めいて新緑中にそびえる富士をいうが、詩歌の伝統では、五月(さつき)は、「月見ず月」とか「五月雨(さみだれ)月」の異名もあり、梅雨の月なので、「五月富士」は、梅雨の晴れ間の富士を想い描きたい。
 呑吐の『芭蕉句解』には、「……雨の晴れ間に富士を眺めたるは、ことさら風流となり。“時や”は晴れ間珍しきをいふなるべし」とある。

    「五月(さつき)は、五月雨の空が垂れこめがちで、富士の仰がれる日が
     少ないが、たまたま晴天に恵まれて富士が望まれるときには、五月富士
     の名のあるのももっともと思われる。今日、わたしはその五月富士を仰
     ぐことができて、これにまさる喜びはない」


      とよもして富士に落石 梅雨終る     季 己

木魂に明くる

2009年07月13日 20時33分04秒 | Weblog
        手を打てば木魂に明くる夏の月     芭 蕉

 夏の夜の明けやすいさまを把握しようとしたものである。そこに一つの驚き・発見があり、表現上の工夫も感じられる。
 「木魂(こたま)」を生むのは、下駄の音でもかしわ手の音でもよいが、そこに夏の月があると、夏の夜明けの感じはいっそう具体的になる。「木魂」は、ここは谺(こだま)に同じで、山彦のこと。『日葡辞書(にっぽじしょ)』・『節用集』に「コタマ」と清音に読んでいる。

 ところで、この句は『嵯峨日記』四月二十三日の条に、

        夏の夜や木魂に明くる下駄の音

 を見せ消ちにして、その右側に掲出されたものである。つまり、「夏の夜や」が改められたかたちが、「手を打てば」の句ということである。

 「木魂に明くる」も、下駄の音よりは「夏の月」に続く方が、語法としていっそう自然である。
 初五も「手を打てば」の方が軽快で、実感に即していよう。「木魂に」の「に」の用い方はまことに微妙で、そこに焦点を合わせるような感じがある。
 「手を打てば」は、単なる気まぐれでそれをしたのではなく、二十三日夜の「月待ち」の行事で、暁の月を拝してかしわ手を打つ音であるという説がある。「月待ち」は、月の出を待って、供物を供え、飲食を共にする行事のこと。講組織をもつことが多く、十三日、十七日、二十三日、などの夜に行なわれ、このとき僧や山伏が呼ばれたものだという。

 「夏の月」が季語。きわめて実感に富んだ使い方で、木魂がそこにひびいて月の中に消えてゆくような感触がわかる。
 見せ消ちの句は、「夏の夜」が季語。下駄の音の木魂のひびき徹るような硬質の感じが生きた使い方である。「下駄の音が遠くこだましてさわやかに聞こえる。その音の中に、いつか明けやすい夏の夜は、しらじらと明けたところだ」の意。

    「手を打つと、その音が遠く響き渡り、彼方にかかる夏の半月の中に
     消えてゆくようである。その月の色を見やると、今しも夜は、しら
     じらと明けてくるところだ」


      冷奴またいさかひの隣家かな     季 己

へそまがり

2009年07月12日 20時12分52秒 | Weblog
 選挙の投票に行ったのは何年ぶりだろうか。
 「支持政党なし」と言って投票に行かなかったが、実は、ただ行くのが面倒なだけだったのである。それが今日、行ったのだ、都議選の投票に。

 2週間ほど前のこと。近所の大型スーパーへ買い物に行く途中、昔の知人に出会った。知人といっても、地方へ転居した彼は、選挙間近になるとこの地に出没する人間なのである。
 声をかけてきた理由は分かっている。「今、急いでいるから」と言っても、「どこかその辺でお茶でも」と、しつこい。無視して歩き出す。
 すると「じゃ、また後でお宅へ伺います」。
 「来る必要ないよ。いくら来たって、ケツなめ掃除の○○党になんか入れないよ」。

 それが拙宅にやってきたのである、都議選告示の翌日に。
 開けておいた窓から声をかけてきたが、「入れないよ、帰れ」と一喝。何か言いたそうであったが、苦笑いして帰って行った。
 来るなと言ったのに、やって来たのが気にくわない。選挙になると、どうしてあんなに熱心になるのだろう。選挙になると、どうしてみんな親しい友達になってしまうのだろう。
 なぜか彼がかわいそうに思えてきた。よし、今回は投票に行こう!
 ということで、午前中、早々と投票をすませた。もちろん、○○党候補を落とすために、反対候補に投票したことは、言うまでもない。
 ひとの嫌がることはすべきではないが、彼のお陰で、貴重な一票を行使できたことは感謝したい。

 昼食後、一息入れてから銀座へ行く。
 東銀座駅近くに行列が出来ている。見ると、行列の最後に、「生キャラメル云々」と書かれたプラカードを掲げた人がいる。ということは、北海道のあの有名な生キャラメルか。行列嫌いの変人は、もちろんパス。
 松坂屋銀座店別館へ行ってみる。4階美術画廊で、「《水墨の夢幻》馬 驍水墨画展」・「《花の讃歌》王荻地墨彩画展」を拝見。と思ったが、「墨彩画展」は、オバチャン・オバチャン……でいっぱい。エロジジイと思われそうなので、遠くから眺めただけでパス。
 反対に、「水墨画展」は、作者はおろか画廊の担当者さえいない。しばらくは変人ただひとり。じっくりと観させていただく、穴のあかない程度に。

 パンフレットには、「芸術の対話」と題して、次のような作者の言葉が載っている。
 
    自ら心の内在的な世界を忠実に表現し、外界に影響される奴隷には
   ならず、水と墨の流動的潜在的な世界、隠喩された視覚的なイメージ
   を再点描する、鑑賞者に神秘的な“真・善・美”を連想させます。
                            ―馬 驍―

 変人が最も感心(感動ではない)したのは、「笛声吹向水雲間」と題する、何を描いたのかわからない作品。
 たしかに馬さんは、水と空気を描かせたら天下一品、ひじょうにウマイ。だが、形あるもの、例えば、富士山・薬師寺などを描いた作品は、イマイチなのだ。
 墨を垂らし、滲ませることにより、筆で描くことの出来ない自然の力で、墨に命を与える独自の溌墨技法は素晴らしい。これだけで十二分に完成している。これに具象物を描き加えることは、蛇足であろう。
 「絵はがき」のような作品を、最高と考える日本人に迎合することなく、独自の道を歩まれんことを切に願う。
 「外界に影響される奴隷にはならず」と述べておられるが、今の氏は、「絵はがき」を描かせられているように思えてならない。
 再度、お願いする。どうか「蛇の足」だけは描かないでいただきたい。そうすれば感心は、感動へと変わるに違いない。やはり、へそまがり?


      日日草おもひつめたる歩を重ね     季 己

続・夕顔

2009年07月11日 20時25分12秒 | Weblog
        夕顔や酔うて顔出す窓の穴     芭 蕉

 「酔うて顔出す窓の穴」という語調には、興じている呼吸とともに、自己を客観視しているまなざしが感じられる。窓から顔を出している姿は、どこかおかしみがあるが、そのおかしみは夕顔の黄昏の色調によって、深々とつつみこまれているのである。
 「窓の穴」は、障子の破れの穴ではなく、窓そのものを指している。おそらく丸窓で、それがまた小さいものだったから、醉中に興じてこのように言ったのだと思う。
 『源氏物語』夕顔の巻の、光源氏が心を許し、物見の窓から顔を出して覗いてながめた夕顔の花を、意識しているところがあるかもしれない。高貴な方のお乗りになる牛車の物見の窓を、「窓の“穴”」とまで俗に貶めたところに、《高悟帰俗》の一端がうかがえる。

 昨日お読みいただいた、瀬戸内寂聴訳『源氏物語』夕顔の巻と同じ部分を、今日は、円地文子訳で読んでいただこう。

    お車も特に目立たぬように窶(やつ)していらっしゃることだし、勿論、
   先払いなどもおさせにならないので、自分が誰であるか知られるはずはない
   と、源氏の君は心を許し、物見の窓から顔を少し出して覗いてごらんになる
   と、門は蔀のような格子を扉にして、棹で押し上げた粗末なものである。見
   通すというほどにもない浅間な小さい家内の、あわれに眺められるにつけて
   も、「世の中はいづれかさしてわがならむ」と世の無常を詠んだ歌のように、
   所詮この世は仮の宿りと思いさだめれば、金殿玉楼もこのようなはかない住
   処も、同じことであろうかとお考えにもなる。
    切掛めいた板囲いのところに、青々とした蔓草がのびのびと這いかかって
   いて、その蔓に、真白い花がわれひとり快げに咲き匂っている。
    「うち渡す遠方人(をちかたびと)にもの申す……」
    源氏の君が思わずひとりごとに古今集の旋頭歌の上の句を口ずさまれる
    と、下の句の「そのそこに白く咲けるは何の花ぞも」という言葉を知ってい
   た御随身(みずいじん)の一人がお前に跪(ひざまず)いて、「あの白く咲
   いた花を夕顔と申します。花の名は人らしゅうございますが、こんなあやし
   げな家の垣根に咲きます」
    と申上げた。
    まったくその言葉どおり小さい家が多く、みすぼらしいこの辺の、ここも
   かしこも妙なふうに傾いて、しっかりしない軒端などに夕顔の蔓が惜しげも
   なくからみついて花咲いている様子を、君は御覧になって、
    「気の毒な宿世の花もあったもの……一房折ってまいれ」
    とお言いつけになる。随身はあの棹で押し上げてある門を入って、花を折
   り取った。(円地文子訳『源氏物語』巻一・昭和47年9月、新潮社刊)

 この円地文子訳と、昨日の瀬戸内寂聴訳との間には30年の隔たりがある。日本人の国語力は、年々落ちているように思う。今の学生には、円地文子訳の注釈本が必要になってくる。だから、「若い人にも理解できるように」と、瀬戸内寂聴訳が出て、多くの人に読まれたのである。
 では、どちらの訳が原文に近いか、と問われたら、円地訳に軍配を上げたい。
 三十年の歳月は、『源氏物語』を歌舞伎で見るか、ミュージカルで見るかほどの違いがある。


      月の香ののこれる朝の月見草     季 己

夕顔

2009年07月10日 21時00分47秒 | Weblog
        淋しくもまた夕顔のさかりかな     漱 石

 七~八月ごろ、夕べに白い花が開き、朝になるとしぼむ夕顔の花。蔓が伸びてひげが絡むので棚を作ったり、畑でも栽培する。
 夕顔といえば、ふつう、花のことをいい、『源氏物語』でよく知られている。秋になると、大きな果実から干瓢をつくる。

        夕顔に車寄せたる垣根かな     子 規

 どこかで聞いたような見たような場面。そう、『源氏物語』夕顔の巻の光源氏が、初めて夕顔の宿に立ち寄った一場面である。

     お車も出来るだけ目立たなく略式にしていらっしゃるし、先払い
    の声も止められているので、自分を誰だかわかりはしないだろうと
    気をお許しになって、少し車からお顔を出して覗かれますと、門は
    蔀戸のようなのを押し上げてあり、中も手狭で、見るからに粗末な
    小さい住まいなのです。しみじみそれを御覧になるにつけても、ど
    うせこの世はどこに住んでも仮の宿りにすぎないのだと、よくお考
    えになってみれば、金殿玉楼もこのささやかな家も、所詮は同じこ
    とだとお思いになります。
     切懸のような粗末な板塀に、鮮やかな青々とした蔓草が気持よさ
    そうにまつわり延びていて、白い花が自分だけでも楽しそうに、笑
    みこぼれて咲いています。
     「そちらのお方にちょっとお尋ねします。そこに咲いているのは
    何の花」
     と、源氏の君がひとりごとのようにつぶやかれますと、護衛の随
    身が、お前にひざまずいて、
     「あの白く咲いている花は、夕顔と申します。花の名は一応人並
    みのようですが、こういうささやかであわれな家の垣根に咲くもの
    でございます」
     と申し上げました。いかにも小さい家ばかりがほそぼそと建てこ
    んだみすぼらしいこのあたりのあちらこちらに頼りなさそうに傾い
    た粗末な家々の軒端などに、夕顔の蔓がからみつき延びているのを
    御覧になって、
     「みじめな花の宿命だね、一房折って来なさい」
     とおっしゃいますので、随身は、あの戸を棹で押しあげた門の内
    に入り、白い花の蔓を折りました。
                (『源氏物語』・夕顔 瀬戸内寂聴 訳)

 以上は、2001年9月、講談社より刊行された『源氏物語 巻一』より引用したものである。これより30年ほど前に、円地文子が訳しているので、読み比べるのも一興かと思う。それは明日のお楽しみに……。


      夕顔の花に月影 人の影     季 己

遣らずの雨

2009年07月09日 20時28分32秒 | Weblog
 失業してしまった。というのは冗談で、外国人のための「日本語サロン」で、2週つづけてあぶれてしまった。
 「日本語サロン」(昼間)は、毎週水曜日、午後2時から4時まで行なわれている。
 先週は、出席者が二人に対しボランティア七人、今週は、出席者が四人でボランティア七人。というわけで、2週つづけてあぶれてしまったのだ。
 そこで、貧乏性の変人は昨夜から、夜間の「日本語サロン」でもボランティアをすることにした。
 こちらは毎週水曜日、午後7時から9時まで開かれている。勤め帰り、学校帰りの外国人たちで、夜間の「日本語サロン」は大盛況。
 最近、転居のためボランティアさんが二人やめたため、変人の参加をみな喜んでくれた。昼間のサロンで担当した方が4名、見受けられたのもうれしい。

 昨夜担当した方は、みな日本語検定1級・2級を目指す方で、かなり日本語を理解されている。ただ、日本語検定は筆記試験とヒアリングのみなので、会話力をつけたくて参加される方が多いようだ。
 中国人女性のMさんはつくづく言う「日本語むずかしいです」と。Mさんは、中国で日本語を学び、中国で日本語検定2級に合格している。
 日本人と再婚し、昨年、日本語検定1級を受けたが不合格だったので、今年の12月の検定では、なんとしても1級に合格したいらしい。
 Mさんは、日本語の読み方はよく分からないが、意味は分かるという。だから、新聞もよく読んでいるとのこと。
 そのMさんでも困るのが、文字は同じでも意味が違うことばがかなりあるということ。
 たとえば「手紙」。日本語では「他人に送る文書・書簡」ということだが、中国語では「トイレットペーパー」になってしまう。
 「愛人」は、中国語では「自分の妻」、つまり「奥さん」だが、日本語では、「恋人・情婦」、つまり「奥さん以外の女性」ということだ。

 ところで、日本人にとっても日本語は難しい。
 昨日、昼の日本語サロンであぶれたおかげで、銀座の画廊へ行くことが出来た。『美齊津 匠一 展』(画廊・宮坂)である。努力の跡、いや、修業の成果が非常によくあらわれている。一例を挙げれば、白の使い方が実にうまくなった、といったら失礼だろうか。
 このまま心を磨き、より単純化を目指したなら、平成の「クマガイ・モリカズ」になるだろう。
 こんな事を思いながら拝見した後、雑談を始めたのだ、いつものように。
 そのとき話題になったのが「遣らずの雨」とは、どんな雨なのか、また「遣らずぼったくり」と何か関係があるのか、ということ。
 聞かれた変人は、真顔で答えた。「《遣らずぼったくり》は、エッチなことをさせるそぶりを見せて、大金を巻き上げること。それと同じように、降りそうで降らない雨を《遣らずの雨》という」と。

 「遣らずぼったくり」はさておき、「遣らずの雨」は、もちろん大ウソ。「遣る」は、人を遣る、人を行かせるということなので、「遣らずの雨」は、客人を帰さないためであるかのように降ってくる雨をいう。つまり、客が帰ろうとすると、とつぜん降り出したり、強く降ったりする雨のことである。
 アルコール&女性過敏症の変人には分からないが、「愛人」のところへ行った場合を考えればよいのではないか。
 「まだ帰っちゃいや。もう少し雨が小降りになってから…、ううん、雨がやんでから、いいでしょ……」
 一度でいいから、「遣らずの雨」に出逢ってみたい!!


      風鈴の五百 池上本門寺     季 己

藻の花

2009年07月08日 23時07分11秒 | Weblog
 夏は水中にただよう藻にも、ひそかな花が咲く。
 石菖藻・梅花藻・松藻・金魚藻・菊藻・蛭むしろなど、沼や湖に生える淡水藻の花を総称して、「藻の花」という。
 これらの藻は、春に繁茂し、夏に黄緑色や白色の花を咲かせる。水の流れや水位によって、浮かんだり沈んだりするのがおもしろい。
 気をつけてみると、どれも可憐で、人を恋う花である。

        晩節やポツと藻の咲く硝子鉢     不死男

 この硝子鉢は、金魚鉢であろうか。すると、金魚鉢に入れる藻は松藻と呼ばれるもの、ということになる。

        藻の花やわが生き方をわが生きて     風 生

 「晩節や」もそうであるが、この句も実によく季語が効いている。
 「わが生き方をわが生きて」は、まるで自分のことを言われたようで、忘れられない句である。何と自分勝手であるかと、我ながらあきれるが、直すつもりはさらさらない。
 「外国人のための日本語教室」でも、変人ひとりが、文法を無視して、発音と口答練習を徹底的に行なっている。責任者の先生は、「もっと文法を教えるように」とおっしゃるが、一切無視。「文法は教える側の都合で作ったもの。わたしは外国人に文法ではなく、日本語を教えたいのだ」とうそぶいて……。

        渡りかけて藻の花のぞく流れかな     凡 兆

 小川にかけられている小さな橋を渡る途中に、ふと可憐な藻の花が咲いているのに気づき、思わず足を止めて流れをのぞき込む、という情景であろう。
 一句から、藻の花の咲く清冽な川が連想される。
 また、「渡りかけて」、「藻の花のぞく」という二つの動作によって、花に目をとめる人の姿が生動する。
 この句は一見、即興的な句に思われるが、実は違うのだ。変人の師、井本農一先生は、次のように述べておられる。
    「これは即興句というようなものではない。なるほど、立ち止まって
     藻の花をのぞき見たのは即興であろう。だが、句は軽い即興のいい
     捨てではない。しっかりしたデッサン、鋭い詩人的直観、ゆるぎな
     い練達の技巧、それらの総合の中に成った名句である」
                     (明治書院刊『俳句講座』4)


      来し方は利根の花藻の淡さにて     季 己

七夕

2009年07月07日 20時41分37秒 | Weblog
 今宵、東京は七夕。地方によっては八月七日というところもある。
 牽牛・織女の二星が陰暦七月七日の夜、天の川で相逢うという美しいロマンス。
 今では陽暦のこの日、幼稚園児や小学生が、七夕竹をきれいに作るのがふつうである。
 変人も手伝っている「外国人のための日本語教室」では、先週、受講生の外国人の方全員に浴衣を着ていただき、七夕飾りを作った。貸し出した浴衣が大好評で、どこで買えるのか、いくらぐらいするのかなど、質問攻めにあったほどである。

 七夕は、梅雨も上がり、ぬぐったような夏空にふさわしい行事であるが、本来は新涼の空、そして月が天の川の南にかかる陰暦の七月七日のことであった。前日から「硯洗・机洗」をして、一心に願い事を浄書する、祈念の行事でもあった。

        合歓の木の葉越もいとへ星の影     芭 蕉

 七夕の宵の、牽牛・織女の二星を、恥じらいの情を投影して把握したところに、艶な情感の生かされた作品である。
 合歓(ねぶ)の木のなよやかな感じは、星合にふさわしいものであり、東北地方では七夕祭に用いるという。

 この句は、「いとへ」を地上の人々へのことばとするか、星へのことばとするかによって、説が分かれている。
 前者の場合は、「合歓」に「眠(ねぶ)」の意が掛けられていると見て、「眠らずとも明かすべし」(師走嚢)の意とし、後者は、「寸の間もなく、翠簾(すいれん)を八重にも掛けたるごときその葉越(はごし)をも尚いとひてまゐらせよ、一とせ一度の契りなるほどに」(説叢大全)とする。
 あるいは、二星をじかにふり仰ぐべきことを言ったものとし、「見る人に対しての吟にや。しからば他の木はもちろんのこと、夜、葉を合す此の木の葉をも厭へ、合歓はあひよろこぶの木と書き侍れば、今宵に似合しき名なれどもとかや」(句選年考)のような解もある。
 合歓のたおやかな感じから、恋の羞じらいを連想したもので、「いとへ」は、星への呼びかけととりたい。
 七夕の句なので秋であるが、明確な季語はない。「合歓の花」は、夏の季語である。

    「合歓の木に、さまざまな飾りつけをして、今宵の星合がうち仰がれて
     いる。年に一度の逢瀬であるから、牽牛・織女よ、地上からこの合歓
     の葉越にかいま見られることを避けて、こころゆくまで睦み合うがよい」


      七夕の短冊タイの尼が書く     季 己

夏羽織

2009年07月06日 20時57分15秒 | Weblog
        別ればや笠手に提げて夏羽織     芭 蕉

 「夏羽織」が季語ということは分かるが、意味のとりにくい句である。
 俳句に意味性は不必要だが、季語「夏羽織」も、はっきりしない使い方になっている。「夏羽織」は別れるもの、という気持を寄せているとみるほか、ないのだろうか。
 「別ればや」の「ばや」は、「~しよう」と自己の意志を控えめに表現する終助詞で、「さあ別れゆこうよ」の意。
 以上のように考えると、
    「さあお別れしよう。笠を手に提げ、着なれたこの夏羽織とも別れて」
 という意であろう。

 半ば言い捨ての一句のようである。ある本の「留別」という前書きは、あるいは編者の賢しらであったかも知れないが、そう考えればいっそう解しやすくはなる。
 旅立つ己が笠を提げ、夏羽織を着ているが、やがてその羽織は脱いでしまう。そのようにしか見えないが、どうも落ちつきにくい。自己を見つめる目として、「笠手に提げて」と解すればいいのかも……。

 ところでこの句、『白馬』(元禄十五年序跋)に所収されているが、芭蕉没後の集にのみ出る句なので、晩年の作であろう。
 冒頭に「別ればや笠手に提げて夏羽織」と掲げたが、『白馬』には、「別れはや笠手に提て夏羽織」と表記されている。当時は、濁点を付けないのが普通なので、「はや」と「ばや」の区別はつけられない。
 定説は「ばや」であるが、変人らしく「はや」で解釈を試みる。つまり副詞とみて、「はやくも」とするのは無理だろうか、ということだ。
 「別れ」は、人々と別れるのではなく、笠と夏羽織とが別れるのである。

     「笠をつけ、夏羽織を着て旅立ったが、はやくも夏羽織は脱ぎ、笠を
      手に提げるしまつであるよ」

 夏羽織は、夏の単(ひとえ)羽織をいう。絽・紗・麻などの薄もので作る。そんな薄ものでさえ着ていられない暑さと、わが身の衰えを言外に言ったものだろう。
 正岡子規に「夏羽織われを離れて飛ばんとす」という句があるが、この芭蕉の句の本歌取りに思えてならない。


      アロハシャツ着て日本語を教へけり     季 己

木下闇

2009年07月05日 21時08分22秒 | Weblog
        人の寄る水からくりや木下闇     一 茶

 むかし、金魚屋の店先に大きな水槽が据えられ、噴水が水を噴き上げたり、細い滝が流れ落ちたりして、絶えず水面にはさざ波が立っていた。これを「水からくり」という。手元の『広辞苑』には、「水を利用した手品の見世物。水の落差を応用して人形を動かす。江戸時代、大坂道頓堀で行われた」とある。
 「木下闇」は、「このしたやみ」と読むが、五音で読む場合は「こしたやみ」。
 夏木立のうっそうと茂って、昼なお暗いさまをいう。下闇・青葉闇などとも使う。
 古歌では、木の晩(このくれ)・木暮(こぐれ)・木の晩隠り(このくれがくり)・木の暗茂(このくれしげ)・木暮(こぐ)る・木暗(こぐら)し、などと用いている。
 「木下闇」の「闇」は、暗黒ということではなく、暗さを感ずることの表示で、明るい場所から茂った樹林の中に入ったときなど、とくにこうした感じが深い。

        須磨寺や吹かぬ笛きく木下闇     芭 蕉

 敦盛の青葉の笛の故事から発想したもので、芭蕉独特の懐古の情がよくうかがえる。
 「吹かぬ笛きく」は、「木下闇」の幻想的な感じを通して、熊谷直実が敦盛を弔う謡曲「敦盛」の場面が、芭蕉の心中によみがえったもの。
 ある人に宛てた書簡には、
    「敦盛の石塔にて泪をとどめかね候。磯近き道のはた、松風のさびしき
     陰に物古りたるありさま、生年十六歳にして戦場に臨み、熊谷に組み
     ていかめしき名を残し侍る。其の日のあはれ、其の時の悲しさ、生死
     事大無常迅速、君忘るる事なかれ。此の一言、梅軒子へも伝へたく候。
     須磨寺のさびしさ、口を閉ぢたるばかりに候。蟬折・高麗笛、料足十
     匹、見るまでもなし。此の海見たらんこそ物には代へられじと、明石
     より須磨に帰りて泊る」
 とある。

 「笛」は平敦盛が、熊谷直実に討たれたとき持っていたと伝えられる青葉の笛のことで、謡曲「敦盛」などに出てくる。須磨寺の宝物となっていた。
 「吹かぬ笛きく」は、吹いているはずのない笛の音が聞こえる意。
 季語は「木下闇」で夏。この下闇が一種の幻想的な「吹かぬ笛きく」を呼び出す契機になっている。

    「須磨寺を訪ねて、今こうして青葉の下闇に立っている。こころなしか、
     青葉のそよぎの中に、あの敦盛の持っていたという青葉の笛の音が聞
     こえてくるような気がする」


      下闇を出でて教師の顔となる     季 己

金魚玉

2009年07月04日 20時25分16秒 | Weblog
        踏切を一滴ぬらす金魚売     不死男

 「金魚えーェ、キンギョ」と、声を引いて止める呼び売りは、江戸中期に登場した伝統の風物詩といえよう。金魚を入れた浅い桶を天秤棒で担ぎ、木綿の手甲脚絆(てっこうきゃはん)と旅人装束で、炎天を流して歩く。
 レールにつまづいたのだろうか、金魚売が、踏切をほんの少しぬらして行く。

 今から、何十年も前のことだろう。
 真夏の下町を、のどかな金魚売の声が流れてきて、昼下がりのまぶたを、つい、とろとろと合わせたくなったのは。
 真夏の昼の金魚売、夜店のカーバイトの灯に照らされていた金魚売、すべては遠い少年時代の思い出。

        雨降つてゐる金魚玉吊りにけり     敦

 金魚を入れて飼う、ガラス製の丸い器を金魚玉という。
 金魚鉢は、そのまま置いて眺めるが、金魚玉は、軒などに吊り下げて眺める。動きや見る角度によって、中の金魚が、大きさや形を変えて映るのがおもしろく楽しい。涼味と童心を満たす金魚玉の魅力は、いついつまでも変わるものではない。

        金魚売病める金魚を捨ててゆく     雄 三

 金魚売の声に誘われて出てみると、水槽の中の金魚は、ぴちゃぴちゃ揺られて、あまり多くもない水の中で、懸命に鰭を動かしバランスをとっている。これはちょっと痛ましすぎて、見た目にもよくない。ましてや、弱った金魚を捨ててゆくとは……。

        金魚店仕舞ふ夜更けの水流す     種 茅

 その点からゆくと、店を構えた町の金魚屋の金魚は、落ちついたものだ。昔は、ガラス屋が金魚屋を兼業していたのが、多かったと思う。金魚玉はもちろん、大小さまざまな水槽が並んでいた。
 軒には風鈴の音が、涼しさを添えていた。店先に据えた大きな水槽には、今年か去年に生まれたばかりの小さな和金や緋鯉が、無数に回遊している。水槽の上に渡した板の上には、琺瑯引きの大きな器が並べられて、ランチュウだの出目金だの、朱文金・オランダ獅子頭など、粒よりの高価な金魚が、おっとりと構えている。
 軒先の風鈴とまじって吊り下げられた金魚玉には、値段の割には見た目の華やかな琉金が、泳ぎ回る角度や、ガラスを透かす体の伸び縮みによって、その振袖姿で客の目を引いていた。


      金魚玉吊つて今昔ものがたり     季 己

ホッとする

2009年07月03日 23時12分11秒 | Weblog
        水無月は腹病病みの暑さかな     芭 蕉

 この句、元禄五年刊の『葛の松原』に、「いづれの年の夏ならむ」として載っている。
 また、元禄四年序の『瓜作』に、「昼は猶腹病煩の暑サかな」と表記して収められている。あるいは、これが初案かも知れない。
 「腹病(ふくびょう)」は、高熱性の病気を広くさしたもの、というのが定説のようである。
 室町時代の国語辞書である『節用集』には、「腹病(フクビヤウ)」・「風病(フウビヤウ)」の語が収められている。
 『源氏物語』《帚木》の巻に「ふびやう」とあるが、これにも「風病」・「腹病」の二説がある。ふびやう=ふうびやう=腹病、という理解があったのであろう。
 『葛の松原』の句形は、「う」・「く」の混同による可能性がないでもない。風病は、風邪のことと解されている。

 さて、『葛の松原』に、「人の得知らざりけむは、源氏の巻々に心をとどめねば、さもあるべし」とあり、『源氏物語』《帚木》の巻の「月頃、風病(ふびやう)重きにたへかねて、極熱(ごくねち)の草薬を服して……」を心に置いての発想と見られる。
 実際に腹病をわずらって暑さを凌ぎかねているというのではなかろう。実感を深めてゆくことを、途中ではぐらかしたようなところがあり、俳諧の笑いにはもう一歩のうらみがある。
 『源氏物語』にいう「極熱の草薬」とは、蒜(ひる)、つまりネギ・ニンニク・ノビルなどを指すというのが古くからの定説で、『瓜作』の句形の「昼」は、元来、掛詞の意識があったのかも知れない。
 季語は「暑さ」で夏。「水無月」も季語であるが、切字「かな」のついている「暑さ」が、季語としての主なる働きを示している。
 どちらも季語としては実感がなく、深まりのない平板な使い方である。俳聖・芭蕉さんにも、こういう句があると知ると、ホッとする。

     「この水無月の暑さはまことにきびしく、何とも不快で、腹病を
      わずらって、その高熱に悩むような感さえある」


      梅雨冷えや眼鏡はづして歎異抄     季 己

四十雀

2009年07月02日 21時11分59秒 | Weblog
          宝生佐大夫(ほうしやうさだいふ)三吟に
        老いの名の有りとも知らで四十雀     芭 蕉

 「四十雀(しじゅうから)」は、雀ぐらいの小鳥で、ツピーッ、ツピーッと高くほがらかに囀(さえず)る。頬と腹は白く、背面は黄緑、頭上と喉は黒い。胸から腹の白いところに、ネクタイのように黒い線があるのが特徴。
 秋冬は群れをなして、村落や都会地にも巣くう。現在は囀りを賞して、夏季とするが、本来は秋の季語であった。
 この句も、「老いの名の有りとも知らで」という句意と通う点から見ても、秋の句ととっておく。

 前書きから見て、宝生佐大夫に対する挨拶句であろう。
 この句は、元禄六年十月九日付、許六(きょりく)宛書簡にあり、句の後に、「少将の尼の歌の余情(よせい)に候」と付記がある。芭蕉、数えで五十歳の作。
 少将の尼は、「おのが音(ね)につらき別れはありとだに思ひも知らで鶏や鳴くらむ」の作者である。
 したがって、この歌を意識した作であることは明らかであるが、鶏への恨みを通して後朝(きぬぎぬ)のつらさを歌ったその本歌に対して、四十雀の軽快さをもって挨拶に転じたところに、芭蕉の手柄があるのではなかろうか。
 ただ諸々のことを考え合わせると、この四十雀の句は捨てる気持に傾いていたようで、『続猿蓑』に前書きを削って載せている。とすれば、挨拶句であることをやめ、単独の述懐の句として位置づけるというかたちでの推敲が行なわれたものかも知れない。単独の述懐とすれば、老いの名を負うていながら軽快に動きまわる四十雀を通して、自己の老いを見つめていることになる。

     「あなたの能を拝見していると、実に若々しく、すでに初老に達し
      ようとしているとは思えないほどである。あの四十雀が《四十》と
      いう名を負うことなどにかかわりなく、きびきびしているように、
      年を忘れて、芸道一筋にいそしんでおられるとは、何と素晴らしい
      ことであろう」


      橋ふたつ渡ればこぼる四十雀     季 己