炎昼の公園に、可憐なピンクの花が咲き盛っている。朝顔に似て、整った形の花である。昼顔だ。
昼顔は、野原や道端など、いたるところに自生するヒルガオ科の多年生蔓草である。「昼顔は摘まぬ花なり石の門 苑子」とあるように、他の草や垣根にからみつく。初夏から初秋にかけて花をつけ、おもに日中に開花するので、昼顔の名がある。
ひるがほに米つき涼むあはれなり 芭 蕉
上五が「夕顔」であると、一日を終えたくつろぎとなって、米搗きのあわれさの感じが生きてこない。
「米搗き」は、江戸の商家などに雇われ、その業に従事した者で、越後・信濃からの出稼ぎ人が多かった。当時、精米は自分の家でしたものなのである。
昼顔というものが、これほど昼顔らしい感じを出しているのは、米搗きとの関わり合いの中に、言葉で説明しがたい隠微な気分を映発するものを持っているからである。それを見抜いた目は、まことに鋭い。
この句の初案は、
夕顔に米つき休む哀れかな
で、再案の、
ゆふがほに米つきやすむ哀れなり
を経て、決定稿が冒頭に掲げる形である。
初案・再案の「夕顔」が、決定稿において「昼顔」に代えられてしまったのである。芭蕉にとって、「米搗き」に最もふさわしいのは、「夕顔」より「昼顔」の花ということなのであろう。
「日盛りに昼顔が淡い花をつけている。そのほとりに、今まで働いていた
米搗き男が、汗を拭い一息入れている。そのホッとした様子が、いかに
もあわれ深い感じを誘う」
芭蕉は、「昼顔」と「米搗き」を取り合わせたが、一茶は、「昼顔」と「豆腐屋」を取り合わせて、次のような句を詠んでいる。
豆腐屋が来る昼顔が咲きにけり 一 茶
昼顔の咲きのぼるさき白き雲 季 己
昼顔は、野原や道端など、いたるところに自生するヒルガオ科の多年生蔓草である。「昼顔は摘まぬ花なり石の門 苑子」とあるように、他の草や垣根にからみつく。初夏から初秋にかけて花をつけ、おもに日中に開花するので、昼顔の名がある。
ひるがほに米つき涼むあはれなり 芭 蕉
上五が「夕顔」であると、一日を終えたくつろぎとなって、米搗きのあわれさの感じが生きてこない。
「米搗き」は、江戸の商家などに雇われ、その業に従事した者で、越後・信濃からの出稼ぎ人が多かった。当時、精米は自分の家でしたものなのである。
昼顔というものが、これほど昼顔らしい感じを出しているのは、米搗きとの関わり合いの中に、言葉で説明しがたい隠微な気分を映発するものを持っているからである。それを見抜いた目は、まことに鋭い。
この句の初案は、
夕顔に米つき休む哀れかな
で、再案の、
ゆふがほに米つきやすむ哀れなり
を経て、決定稿が冒頭に掲げる形である。
初案・再案の「夕顔」が、決定稿において「昼顔」に代えられてしまったのである。芭蕉にとって、「米搗き」に最もふさわしいのは、「夕顔」より「昼顔」の花ということなのであろう。
「日盛りに昼顔が淡い花をつけている。そのほとりに、今まで働いていた
米搗き男が、汗を拭い一息入れている。そのホッとした様子が、いかに
もあわれ深い感じを誘う」
芭蕉は、「昼顔」と「米搗き」を取り合わせたが、一茶は、「昼顔」と「豆腐屋」を取り合わせて、次のような句を詠んでいる。
豆腐屋が来る昼顔が咲きにけり 一 茶
昼顔の咲きのぼるさき白き雲 季 己