壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

梅雨明け

2009年07月14日 20時59分31秒 | Weblog
 今日、関東甲信の梅雨が明けた。平年より六日早く、昨年より五日早いという。本州では一番早い梅雨明けである。
 梅雨明けには雷鳴を伴う大雨・暴風がつきもの。
 昨夜の富士山がそのようで、富士山新五合目駐車場で、直径一メートル余りの石が落下し、駐車中のキャンピングカーを直撃した……。(合掌)

        目にかかる時やことさら五月富士     芭 蕉

 五月富士を仰ぎえた喜びなのか、見えない五月富士を思いやっての作なのかは、必ずしもはっきりしない。『蕉翁句集』の前書きを信ずれば、前者として解すべきものであろう。
 ただし、島田宿からの五月十六日付曾良宛書簡には、
 「箱根雨難儀、下りも荷物を駕籠に付けて乗り候。漸くに三島に泊り申し候。……十五日島田へ雨に降られながら着き候」
 とあり、『蕉翁句集』の前書きには、この句を性格づけるための虚構の跡が感じられる。ともあれ、芭蕉には、これが富士の見納めになってしまった。

 従来は、「五月富士といわれるだけあって、今はことさら富士が目につくときだ」とか、「予期しないで目に入ったときこそ、五月富士の美しさはひとしおだ」といった風の解が行なわれていたようであるが、はたしてそうだろうか。

 「目にかかる」は、目につく、目にはいる、の意。
 季語は「五月富士」で夏。
 「五月富士」は、既成の季語のように芭蕉は用いているが、江戸期までの歳時記には見あたらない季語である。
 現在では、ほとんど雪も消え、夏山めいて新緑中にそびえる富士をいうが、詩歌の伝統では、五月(さつき)は、「月見ず月」とか「五月雨(さみだれ)月」の異名もあり、梅雨の月なので、「五月富士」は、梅雨の晴れ間の富士を想い描きたい。
 呑吐の『芭蕉句解』には、「……雨の晴れ間に富士を眺めたるは、ことさら風流となり。“時や”は晴れ間珍しきをいふなるべし」とある。

    「五月(さつき)は、五月雨の空が垂れこめがちで、富士の仰がれる日が
     少ないが、たまたま晴天に恵まれて富士が望まれるときには、五月富士
     の名のあるのももっともと思われる。今日、わたしはその五月富士を仰
     ぐことができて、これにまさる喜びはない」


      とよもして富士に落石 梅雨終る     季 己