草の雨祭の車過ぎてのち 蕪 村
五月十五日(もとは陰暦四月中の酉の日)に行なわれる京都上賀茂の賀茂別雷(わけいかづち)神社と、下賀茂の賀茂御祖(みおや)神社の例祭を「葵祭」という。
日本一の大祭で、かつて単に祭といえば、この賀茂祭すなわち葵祭を指した。したがって、蕪村の句は、葵祭を詠んだものと知れる。
また、葵祭は夏に行なわれることから、俳句で「祭」といえば、夏の季語で夏祭を指し、春・秋の祭はそれぞれ「春祭」・「秋祭」と詠むことになっている。
『源氏物語』葵の巻にも、六条御息所(みやすどころ)の車と源氏の正妻葵上(あおいのうえ)の車とが、祭見物のよい場所をとろうと、車争いをする話が書いてあり、この話は、謡曲「葵上」にもなっている。
清少納言の『枕草子』にも、「四月、祭のころ、いとをかし」とある。
これは、陰暦四月第二の酉の日の賀茂の祭、すなわち葵祭のころのことで、清少納言は、祭見物の途中、田園での田植えのありさまを初めて見て、興味を持ったことが書いてある。田植えに関する、最古のくわしい文献と言われている。
地に落ちし葵踏みゆく祭かな 子 規
この日、奉仕の神官、殿上人、いずれも冠に、葵鬘(あおいかずら)として葵の葉を挿し、また、柱・すだれ・几帳(きちょう)にもそれを挿したので、祭の名まで葵祭となった。
葵は当時、“あふひ”と書いたので、“人に逢う日”・“男女が遭える日”・“物事がうまく合う日”と、都合のよいように解釈して、縁起のよい草だと思ったらしい。
実は、“あふひ”は、その葉の形が団扇形なので、太陽をあおぎまねく呪力のある植物だと思われたのと、東洋本草学では、強壮解毒の薬草と信じられていたので、霊力のある植物となり、その呪術として、葵をつけて祭をおこなうことになった、ということだろう。
うち笑みて葵祭の老勅使 青 畝
葵祭の行列は御所を出て、烏丸通りから御池をへて、市役所に出、河原町を北に進み、下鴨神社に入る。ここで祭典を終えて、午後、下鴨本通りから、北大路をへて、鴨川堤を上賀茂神社に行き、また祭典を行なう。帰りは、新町を南下し、北大路、烏丸通りを通って、夕方、御所に帰る。
けっきょく、御所から出て、下鴨・上賀茂両社をへて御所に帰るのだから、勅使参向(ちょくしさんこう)の行列であることは明らかである。行装美しく着飾り、牛車のきしみものどかに往き来した葵祭も、しょせん朝廷の勅祭にすぎない。
おそらく、さきの『枕草子』の記事のように、貴族の子女は、年に一度の観物(みもの)としてさわいだが、路傍の農民は、それに背を向けて、田植えにいそしんでいたに違いない。
しかし、いまは京都の代表的な“おまつりショー”にかわってしまった。
いにしへの 絵巻のなかを 抜け出でて
行列のゆく 加茂堤かな 吉井 勇
と、さながら王朝絵巻をくりひろげるような美しいショーとして、京都の大切な観光資源となっている。
いまでは、時代祭(平安神宮)、祇園祭(八坂神社)、大文字焼、都をどりなみにあつかわれている。
人と逢ふ旅さきにあふ祭かな 季 己
五月十五日(もとは陰暦四月中の酉の日)に行なわれる京都上賀茂の賀茂別雷(わけいかづち)神社と、下賀茂の賀茂御祖(みおや)神社の例祭を「葵祭」という。
日本一の大祭で、かつて単に祭といえば、この賀茂祭すなわち葵祭を指した。したがって、蕪村の句は、葵祭を詠んだものと知れる。
また、葵祭は夏に行なわれることから、俳句で「祭」といえば、夏の季語で夏祭を指し、春・秋の祭はそれぞれ「春祭」・「秋祭」と詠むことになっている。
『源氏物語』葵の巻にも、六条御息所(みやすどころ)の車と源氏の正妻葵上(あおいのうえ)の車とが、祭見物のよい場所をとろうと、車争いをする話が書いてあり、この話は、謡曲「葵上」にもなっている。
清少納言の『枕草子』にも、「四月、祭のころ、いとをかし」とある。
これは、陰暦四月第二の酉の日の賀茂の祭、すなわち葵祭のころのことで、清少納言は、祭見物の途中、田園での田植えのありさまを初めて見て、興味を持ったことが書いてある。田植えに関する、最古のくわしい文献と言われている。
地に落ちし葵踏みゆく祭かな 子 規
この日、奉仕の神官、殿上人、いずれも冠に、葵鬘(あおいかずら)として葵の葉を挿し、また、柱・すだれ・几帳(きちょう)にもそれを挿したので、祭の名まで葵祭となった。
葵は当時、“あふひ”と書いたので、“人に逢う日”・“男女が遭える日”・“物事がうまく合う日”と、都合のよいように解釈して、縁起のよい草だと思ったらしい。
実は、“あふひ”は、その葉の形が団扇形なので、太陽をあおぎまねく呪力のある植物だと思われたのと、東洋本草学では、強壮解毒の薬草と信じられていたので、霊力のある植物となり、その呪術として、葵をつけて祭をおこなうことになった、ということだろう。
うち笑みて葵祭の老勅使 青 畝
葵祭の行列は御所を出て、烏丸通りから御池をへて、市役所に出、河原町を北に進み、下鴨神社に入る。ここで祭典を終えて、午後、下鴨本通りから、北大路をへて、鴨川堤を上賀茂神社に行き、また祭典を行なう。帰りは、新町を南下し、北大路、烏丸通りを通って、夕方、御所に帰る。
けっきょく、御所から出て、下鴨・上賀茂両社をへて御所に帰るのだから、勅使参向(ちょくしさんこう)の行列であることは明らかである。行装美しく着飾り、牛車のきしみものどかに往き来した葵祭も、しょせん朝廷の勅祭にすぎない。
おそらく、さきの『枕草子』の記事のように、貴族の子女は、年に一度の観物(みもの)としてさわいだが、路傍の農民は、それに背を向けて、田植えにいそしんでいたに違いない。
しかし、いまは京都の代表的な“おまつりショー”にかわってしまった。
いにしへの 絵巻のなかを 抜け出でて
行列のゆく 加茂堤かな 吉井 勇
と、さながら王朝絵巻をくりひろげるような美しいショーとして、京都の大切な観光資源となっている。
いまでは、時代祭(平安神宮)、祇園祭(八坂神社)、大文字焼、都をどりなみにあつかわれている。
人と逢ふ旅さきにあふ祭かな 季 己