壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

竹の子

2009年05月06日 21時06分58秒 | Weblog
 ゴールデン・ウイークもやっと終った。
 以前は、ゴールデン・ウイークが待ち遠しく、且つ又、楽しみでもあった。
 それがどうだろう。サンデー毎日の我が身、ゴールデン・ウイークの感激がまったくなくなってしまった。働く喜びを、今頃になってしみじみ思う。

 これで人々の心も落ち着き、野山も若葉色でその装いを新たにする。
 食べ物も“海の幸・山の幸”が美味しくなる時節であるが、魚が苦手な変人は、山の幸しか楽しんで味わうことが出来ない。

        竹の子の刺身を喰ひに東山     春 樹

 今頃の食べ物というと、まず「竹の子」が浮かぶ。竹の子を見ると、竹の子の皮に梅干を包んでしゃぶった少年時代がなつかしい。今は食料が豊富だから、竹の皮に梅干を、などとはしないであろう。
 竹の子は、朝掘りのものが最も美味しく、掘りたては、えぐみもなく生で食べられる。
 掲句の「竹の子の刺身」は、京都・西山の朝掘りの竹の子であろう。それを食べたくなって、京都・東山の料亭に出かけたのだ。

        竹の子や稚き時の絵のすさび     芭 蕉

  「竹の子がすくすくと生い立っている。稚(おさな)い時に、しばしば絵に
  描き興じたその通りにずんぐりと太った愛らしい様子で、稚い日々のことも
  自然となつかしく思い出されることだ」

 『源氏物語』蛍の巻や若紫の巻のおもかげを見たり、あるいは、人の成長の速さに驚く気持をこめたとする解釈がある。しかし、もっと素直に単純に解したい。
 竹の子というものには、何となく愛らしい感じがあり、どこか少年の日の夢に通い合うところがある。
 この句は、門弟の去来の庵、落柿舎で詠まれたもの。落柿舎のある京都・嵯峨野あたりの竹の多いところに日を過ごしていると、自然と竹の子の目に入ることが多く、ふと少年の日を追憶したこともあったのであろう。
 竹の子は、画賛の句として画中のものと見るよりは、現実、眼前のものであった方が、句として奥行きが出てくると思う。

 「すさび」は、気のむくままに事を行なうこと。もてあそび。慰みごと。
 元禄四年(1691)四月二十三日、嵯峨落柿舎での作。季語は「竹の子」で夏。
 竹の子の季感と共に、その形その感触を通して、子どもの世界とのつながりがとらえられている。
 竹はまっすぐに成長する。他の植物の苗木を竹薮の中に植えると、その苗木も曲らずに育っていくという。竹には、他も自分をもすなおに育て、育つ徳があると思われる。


      竹の子や影と添ひたる兄弟     季 己