壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

2009年05月11日 20時25分11秒 | Weblog
 小沢民主党代表が、やっと、辞任を表明した。何で今頃になって、遅すぎるよとも思うが……

 上から下へ、ずばりと断ち切ることや、ものごとを、ぷっつりとやめることなどを「断(だん)」という。
 ちなみに『広辞苑』には、
  だん【断】
   ①たつこと。切りはなすこと。
   ②やめること。とぎれること。
   ③思いきって事をなすこと。決定すること。
   ④きっぱり。かならず。
   ⑤ことわること。
   ⑥[仏]煩悩をたつこと。
 とある。

 仏道を学ぶ人たちを菩薩(ぼさつ)というが、この菩薩がおこす、四つの大きな誓願がある。これを『四弘誓願(しぐぜいがん)』という。
 その第一が、「衆生無辺誓願度(しゅじょうむへんせいがんど=命あるものを救い、幸せにしたい)」で、この誓願を果たすために、第二から第四の誓願が発せられる。
 第二の誓願が、「煩悩無尽誓願断(ぼんのうむじんせいがんだん)」といい、煩悩の数がどれほど多くても、その煩悩を、ずばりと断ち切ろう、ぷっつりやめよう――という「断」の誓願である。

 仏教思想の上からいうと、原始仏教や小乗仏教の信徒たちは、煩悩を断滅する誓願を果たすために、さまざまな難行苦行を、長期にわたって積み重ねた。
 大乗思想になると、自分だけの煩悩を断じて満足するよりも、誰もの心が安らぐには、生きている限りは無くなるはずのない煩悩を、難行苦行で処理するのではなく、マイナスの煩悩を整理整頓して、プラスの悟りの価値を創造する修行の誓願となる。
 したがって、断ち切るのではなく、煩悩を調える誓願を強調する意味で「断」という。『法句経』にいう「よく己を調える願い」を誓願断という。
 整理整頓された煩悩こそ尊い。いくら掃いても落葉する庭を、いつもきれいにするには、樹木を切るよりも、絶えず掃除をつづける実践が願わしい。平生と不断、つまり連続とが同意語になるのは、意味の深いところである。

 ついでに、『四弘誓願』の第三は、「法門無量誓願学(ほうもんむりょうせいがんがく=仏の教えのすべてを学び知ろう)」。
 第四番目が、「仏道無上誓願成(ぶつどうむじょうせいがんじょう=この上ない悟りに到ろう)」とつづいている。
 仏道を志す菩薩に限らず、われわれ凡夫(ぼんぷ)においても、誓願を果たすための不断の努力が必要であるし、日常の営みにおいて、誓願にそった<その日ぐらし>ができればと念じて生きているつもりなのだが……


      筆塚の筆をねむらす竹落葉     季 己