壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

観音霊場

2009年05月20日 21時12分41秒 | Weblog
 大の親日家としても有名なフルートの巨匠、ジャン・ピエール・ランバルが亡くなったのが、2000年5月20日である。
 パリ国立音楽院を5ヶ月で卒業し、25歳のときに、ジュネーヴ国際コンクールで優勝、天賦の才能で20世紀を代表するフルート奏者となった。

 1978年5月20日、新東京国際空港、つまり、現在の成田国際空港が開港した。

 また、知人のMさんの結婚記念日が今日で、最近、旅行業をはじめたMさんの記念すべき第1回目の企画が、きょう行なわれ、秩父まで行って来た。
 秩父といえば、なんといっても秩父夜祭と秩父札所めぐりであろう。
 秩父札所は、秩父三十四ヶ所観音霊場とも呼ばれ、西国三十三ヶ所、坂東三十三ヶ所と共に、日本百番観音に数えられている。
 秩父札所は、室町時代後期には定着したと考えられ、江戸時代になると、観音信仰は庶民の心の支えとして流布し、隆盛をみるようになった。
 秩父巡礼は、一番の四萬部寺から三十四番の水潜寺まで、静寂な山村と美しい自然の風光を背景に、一巡100kmほどある。この間、ある時は谷を渡り、山路ををたどり、野面を横切っての巡拝は、秩父札所ならでは、と言えよう。

 観音様のご利益の話でもっともよく知られているのは、お里・沢市の物語だろう。
 この物語の原型は、壺坂寺に古くから伝えられていたもので、寺の北方にある高取城下に住む盲目の沢市が、壺坂寺の観音様に三年間日参をして、ついに光明を回復したという、きわめてシンプルなものである。
 これに、貞女お里を配して、一篇の夫婦愛の物語に仕立て上げたが、『壺坂霊験記』である。
 観音信仰は、明治十年頃から全国的にたかまり、明治維新前後にしばらく下火になっていた観音霊場めぐりが復活する。それに伴なって、西国三十三ヶ所の寺々では、それぞれ霊験記が作られた。
 「三つちがいの兄さんと」で有名な『壺坂霊験記』は、そのもっとも成功した例で、当代きっての三味線の名手といわれた二代目豊沢団平と、その妻の千賀とが作曲したといわれている。

 壺坂寺は数度の火災で、清少納言が「寺は、壺坂」と記した頃の威容は失っているが、お里が通った山路は、秋の紅葉がそれはそれは美しい。


      薫風の宮居よこぎる母子かな     季 己