壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

御目の雫

2009年05月26日 22時59分23秒 | Weblog
        若葉して御目の雫ぬぐはばや     芭 蕉

 『笈の小文』には、
    「招提寺鑑真和尚(しょうだいじがんじんわじやう)来朝の時、
     船中七十余度の難をしのぎたまひ、御目のうち潮風吹入りて、
     終に御目盲(し)ひさせ給ふ尊像を拝して」
 と、前書きがある。

 折から、あふれる初夏の陽光に、開山堂のあたりは、まばゆいばかりに若葉が照り映えている。
 若葉のみずみずしい色が目もさめるように堂の四辺を囲んでいる中で、目を移して尊像を拝すると、盲いた眼は永遠にとじられたままである。
 その眼のあたりには、涙のような雫さえ感じられる。それを拭ってさしあげたいと思ったのである。この気持ちは、尊像の姿と若葉の目のさめるようなあざやかさに映発されたものであろう。
 「このしたたるような若葉でもって、御目のもとの雫をぬぐってさしあげよう」とも解せるが、どうであろうか。
 お顔のあたりに揺曳する若葉のかげは、拭うような感じでこの気持を誘発したものと、最近、思うようになったが……。

 鋭い感覚の生きている句である。
 一句の眼目は、なんといっても「御目の雫」であろう。それは詩人の鋭い感覚が、尊像の御目もとに見留めた初夏の微妙な陰影のしめりであり、また同時に、潮風目にしむ船中七十余度の艱難を、わが身にひきくらべて追体験し、その痛さに、わが目をしばたたいてみた詩人の、その心眼がこぼした、清く尊い幻想の涙とみることもできよう。

    「開山堂のあたりは若葉が満ち満ちて、さわやかな目のさめるような
     初夏である。この中にひとり鎮座まします鑑真和尚の尊像の盲いた
     御目の雫を拭ってさしあげたいものだ」


      白き夜となり公園の朴ひらく     季 己