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壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

高取城跡

2009年05月21日 22時53分30秒 | Weblog
 「高取城に行きたいのですが、一緒に行っていただけませんか」
 そう声をかけられたのは、壺坂寺を出て5分もたたないうちだった。見れば、一人旅のうら若い女性である。
 「高取城といっても城跡だけで、“猿石”以外は何もないですよ。第一、めったに人も行きませんよ」
 と、暗に行くのを止めた。
 「卒論の関係で、その“猿石”がどうしても見たいのです。一人ではとっても怖くて……。どうかお願いします」
 「よっぽど安全牌に見られたんだな」と、心の中では悔しかったが、結局、一緒に行くことにした。

 ふつう、誰も人がいないと怖いという。けれども変人は、誰か人がいると怖いのだ。誰も人がいない、ということがわかっていれば少しも怖くはない。いちばん怖いのは人間で、幽霊などというものは全然恐ろしくない。

 聞けば、東京の某大学史学部の3年生とのこと、道々、話をしながら高取城跡を目指した。今から30年ほど前のことである……

 壺坂寺の横の吉野街道を少し登り、左へ300メートルほど行ったところに、累々として怪奇な顔をした五百羅漢が、山肌にへばりついている。
 大和に石仏が多いことは有名である。しかし、こんなみごとで壮大な群像は珍しい。どの顔もあどけない素朴なものである。
 どれもこれもおおらかで、超然としているのである。これらの群像を見ていると、小さなことにこだわったり、力んだりしていることがバカらしくなってくるくらいだ。
 おそらく、そんな気持の人が、悠々と時の流れを超越して彫ったものであろう。
 この五百羅漢の上に、高取城跡があるから、戦国時代の終わりにでも、付近の合戦の戦死者のために残されたのかもしれない。

 高取城といえば、大和では有名な城である。
 先の女子大生が、身の危険?をかえりみず高取城へ行ったのは、高取城が付近の石造文化財を壊して石積みをやっていることだった。
 たとえば、弘法大師のつくった益田池碑という大きな碑が、むかし橿原市にあった。その碑文が伝わり、碑の台石も残っているのに、碑そのものは現存しない。ところが、高取城には、ところどころに碑文の一点一画を彫った石材が積まれているという。弘法大師の碑は、割り砕かれて、城の石垣の中に消えたのは、どうやら間違いないことらしい。

 また、城の道の傍に、“猿石”と呼ばれるものが立っている。これは、明日香村桧隈にある欽明帝陵のそばの吉備姫の墓や、橘寺にある飛鳥地方特有の、飛鳥時代の石人の一つと思われる。
 さすがに、石舞台古墳の石は、大きすぎて運べなかったが、それでも、羨道(せんどう)の天井石は全部なくなっている。これは、昔から、高取城へ持ち去られたと伝えられている。

 飛鳥の有名な“鬼の雪隠(せっちん)”・“鬼の俎(まないた)”は、俎が石室の底で、その上に雪隠といわれるものが伏せて置いてあったのである。それを今のようにひっくり返し、しかも俎を割ろうとして、一面に石割り用のくさびの穴を入れてあるのは、ともに高取城の仕業だと伝えられている。
 すると、飛鳥地方には、昔はもっともっと多くの石造物があり、運びやすいものはみな持ち去られて、大きすぎるものだけが取り残されているのだと言えそうだ。


      大夕焼 羅漢の上に羅漢ゐて     季 己