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壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

鵜飼

2009年05月12日 20時51分37秒 | Weblog
 世界的に有名なショーとなった長良川の鵜飼が、昨日(5月11日)解禁となった。

 鵜飼は、遠く万葉の時代から1300年つづく、鵜を使って鮎を獲る漁法である。
 五月から十月にかけて、岐阜の長良川をはじめとして、全国各地の清流で、多くの観光客を集めて鵜飼が行なわれていたが、今はどうであろうか。

        鵜飼名を勘作と申し哀れなり     漱 石

 長良川の鵜飼は、満月の夜と出水のために川の濁った夜とを除き、10月15日まで毎晩、月が沈んでから行なわれる。
 夜の川面を渡る涼風の中、風折れ烏帽子に腰蓑をつけた黒装束の鵜匠が、「ほうほう」と声をかけながら、手縄のさばきも鮮やかに、十二羽の鵜を遣いこなして、銀鱗躍る鮎を獲る。

        篝火の金粉こぼす鵜のまはり     静 塔

 鵜舟の舳に焚いた篝火が、舟の揺れとともに闇に火の粉を散らし、川面の鵜や鵜匠の横顔を浮きたたせる。
 鮎を呑んだ鵜は、鵜縄で舟にひきあげられ、すぐ吐き出させられる。

        疲れ鵜の互に嘴をかみ合はす     敬 子

 漁が終わり、水に濡れて黒さを増した鵜は、古参から順に船縁に並び、疲れた身体を休める。
 そして、宴が終わり、観光客の帰ったあとの静けさの中を、鵜は従順に鵜籠に入り、鵜匠の家へ戻ってゆく。
 いかにも夏の夜にふさわしい、一篇の風物詩である。

 長良川の清い流れ、金華山の緑、鵜飼といえば、ここをおいて他にはないような気がする。けれども、古くは、日本国中、到る所で行なわれていた普通の漁法であった。
 『古事記』『日本書紀』『萬葉集』などに、しばしばその記録が見えるし、鵜飼を代々の職業として、鵜飼部と呼ばれる部族さえ設けられていたほどである。

        鵜飼の火川底見えて淋しけれ     鬼 城

 したがって、その昔の鵜飼の名所は、大和の泊瀬川(はつせがわ)や吉野川、山城の玉川や桂川、岩国の錦川、遠い奥州の最上川に到るまで、随所にあったという。言い換えれば、昔の日本の河川はすべて、鵜飼の鮎漁に適した清流ばかりであったということだろう。

 今では、唯一ともいえる長良川の鵜飼さえ、稚魚が伊勢湾から遡上して、成魚となった天然野生の鮎ではなく、観光のために養殖した成魚を放流しているとのこと。まるでお芝居ではないか。長良川の河口堰が、鮎の循環を阻んでいるからだ。
 減反政策というのは、余剰米を調節するための稲の植え付け制限であるはずなのに、一方では農地の灌漑用水確保のためという河口堰の建設や農地拡大のための干拓を強行する明らかな矛盾。そこに政官財界癒着の自然破壊が堂々と進行していたのでは、鵜匠の鮮やかな縄さばきに拍手喝采する鵜飼の観客も、私利私欲に財布を膨らませたいわくつきの輩に限られるというものであろう。
 「馬鹿馬鹿しくてやがて腹立つ鵜飼かな」には、なってほしくない。


      鵜の声の火をくぐり来る修羅場かな     季 己