壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

箸墓古墳

2009年05月29日 20時38分34秒 | Weblog
 山辺の道は、三輪から奈良へと通じる上古の道である。
 大和平野には、南北に走る上・中・下ツ道の官道があり、それぞれ7世紀の初めに造られた。上ツ道のさらに東にあって、三輪山から北へ連なる山裾を縫うように伸びる、起伏の多い道が山辺の道である。

 古代国家の発祥の地といわれる三輪山の麓には、おびただしい数の古墳が散在している。なかでも、崇神天皇の叔母にあたるヤマトトトヒモモソ姫の「箸墓」は、全長272メートル、後円部の直径は157メートル、高さ23メートル、前方部の幅は25メートル、高さ13メートルという雄大な前方後円墳だ。
 他の古墳よりも平野部に出ているため、そのこんもりとした森は、盆地に浮かぶ緑の島のように見える。

 姫は、三輪の大物主神の妻だった。夫の神が、夜だけしか姿を見せないので、姫が、昼間の姿を見たいと願うと、夫の神は承知して、
 「明日、そなたの櫛笥(くしげ)の中に入っていよう。わが姿を見て驚かぬように」
 と言った。あくる日、姫が櫛笥を開けてみると、衣の下紐ほどの、うるわしい小蛇が入っていた。姫が驚いて声を上げたので、神は、
 「私に恥をかかせた」
 と言って、三輪山に登ってしまわれた。姫は嘆き悲しんで、みまかったという。
 『日本書紀』に記された神婚説話である。

 この箸墓古墳には、「卑弥呼の墓」との説がある。
 このほど、国立歴史民族博物館(千葉県佐倉市)の研究グループが、箸墓古墳の築造時期について、240~260年とする調査結果をまとめた。
 読売新聞によれば、この年代は、魏志倭人伝に「卑弥呼以て死す、大いに“ちょう”を作る」と記載された247年頃と時期が一致し、倭の女王・卑弥呼がいた邪馬台国の位置論争にも影響を与えそうだ、とある。また、同グループの春成秀爾名誉教授は、
 「これで箸墓古墳が卑弥呼の墓であることは間違いなくなった」
 と話している、とのこと。
 またまたこれで、邪馬台国の、九州説と畿内説とのガチンコ勝負?が面白くなってきた。


      アンタレス卑弥呼の墓といふ古墳     季 己